なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか? 下

pikarrr2005-06-29

ネットコミュニケーションの純化「死闘」


たとえば初対面の人との現前の会話(パロール)は、社交辞令的な会話から入り、他者の容姿、表情、動きなどから、その人の「人物像」を作り上げながら、「まなざし」を共有していく。それは、社会的儀礼の中に互いに拘束しあう行為であり、それによって会話の意味を規定していくとともに、「イマジネール(想像的)な死闘」は回避される。

しかしネット上のパロリチュール(文字会話)では、他者の情報(人格消費)が決定的に欠落する。そのために「まなざし」の共有が希薄化し、社会的儀礼の中に互いに拘束しあうことが困難になる。それは上手くすれば、現前の会話(パロール)では、社会的な儀礼によって口にできなかった「本音」をいいあい、「暗闇への跳躍」に成功し、とても深く繋がりあえたという快楽を味わうことができるかもしれない。

しかし多くにおいて、このような他者との剥き出しの関係は、テクストの意味を宙づりにされたまま、「イマジネール(想像的)な死闘」へと転倒する。すなわち、ネットコミュニケーションでの安易な発言は、、意味が宙づりされた疑心暗鬼なものとなる可能性が高く、その発言は、過剰なほどに気を使った言葉で、行わなわれる必要があるだろう。




2ちゃんねるはなぜ成功したのか?


では、このようなネット上のディスコミュニケーションにおいて、2ちゃんねるはなぜこれほど活発なコミュニケーション場を作ることができたのだろうか。2ちゃんねるの成功は、突然起こったわけではなく、その前段階の先鋭的なネットサーファーたち(死語!)の様々な試みの繰り返しの結果としてあるだろう。

まず2ちゃんねるの有効性は、「名無し」を徹底したことだろう。「名無し」の場合には、フレーミング(言い合い)」が発生しても、相手を継続的に特定できず、「イマジネール(想像界の)な死闘」は一次的なものでしかなくなる。

しかし決定的に重要なものが、ボクが2ちゃんねるスタイル」と呼んだものである。2ちゃんねるでも、当然、あちこちで、「イマジネール(想像界の)な死闘」というマジとマジの対立が起こるだろう。しかし、2ちゃんねるでは、衝突すると「なにマジになってるんだ。マジのふりで言ってみただけだろう。」というメタレベルへ退避することがおこなわれる。

2ちゃんねるでは、「マジに没入せずに、たえずメタレベルの確保を忘れない」ということは、もはや「暗黙の儀礼であり、それが2ちゃねらーである。たとえば2ちゃんねる初心者や、マジな人は、マジで会話し、白熱したところで、2ちゃねらーが急に、「ネタにマジレス、格好悪い」とメタレベルへ退避する。このような対応は、悪ふざけでしかないとうつるだろうし、アイロニカルであるとともに、シニカルであり、真面目な人にはあまり気持ちの良いものではないかもしれない。

しかしこのような儀礼は、新たなひとつの「まなざし」の共有の形態であり、「イマジネール(想像界の)な死闘」を回避するひとつの社会性である。そしてこれによって、ネット上の言いたいことが言えるような環境が確保され、2ちゃんねるが集客に成功した大きな要因の一つだろう。




ネットコミュニケーションにおける4つのスタイル


ネットコミュニケーションにおいて、有効な方法として、主な4つの対応が考えられのではないだろうか。

① ROMに徹する・・・・これが一番無難ではある。

② 過剰な丁寧スタイル・・・・自己主張を極力さけ、相手を立てて、低姿勢で対応する。

③ 2ちゃんスタイル・・・・上述のメタレベルを担保しながら、言いたいこという。

④ データーベーススタイル・・・・「事実情報」のみをデータベース的に提示する。たとえば、パソコンの技術情報の記述や、最近のニュースの内容を、自分の感想を込めずに、「事実情報」として、提示する。これはいわば、オタク的コミュニケーション方法といえるだろう。オタクとは、ある領域のテクニカルな内容をより細部に向けて、データーベース化して提示してコミュニケーションする。単にその分野に共有の知識があるということで、コミュニケーションが成立し、「まなざし」の共有、すなわち社会的な儀礼へ拘束が必要とされにくい。すなわちメタレベルの意味が排除され、コンスタティブな意味のみで、コミュニケーションが成立する。

2ちゃんねるにおいても、このよな「データーベーススタイル」は有用である。たとえばボクはデジタル製品や、家電製品を買いたいときに、2ちゃんねるをデーターベースとして利用する。そこには多くの有用な生の商品情報を見つけることができる。




ネタ的コミュニケーションと2ちゃんねるの終焉」


2ちゃんねるは、ショッキングな事件としてマスメディアへ取り上げられたり、通信環境がよくなったり、することによって、さらに集客力を増大させた。ネット上では集まるところに人は集まる傾向がある。そしておそらく本来は、マジな会話を行うための回避策であった2ちゃんねるスタイル」は、2ちゃんねるスタイル」として様式化され、メタがネタとして、2ちゃんねるスタイル」そのものが目的化している。

ネタ的コミュニケーションとは、コミュニケーションそのもののテンプレートへの言及を重ねて行われる、すべてがネタであるかのように振る舞うコミュニケーションの形式。例えばある書き込みにレスをつける際に、2ちゃんねるではまじめに返答することが必ずしも求められない。むしろ本来返答すべき解答とは微妙にズレた回答をすることでおもしろさを演出していこうとする。さらに興味深いのは、そのようなズレた回答へのさらなる(ズレた)言及が、全体としてコミュニケーションを切断させることなく続けていくという点だ。すべてがネタである「かのように」振る舞うネタコミュニケーションは、どんなに本気にコミュニケーションをしようとしても周囲から「ネタ」として言及される対象なる可能性をはらんでいる。・・・ネタと了解されるものを本気でレスを返すと、「マジレス」を揶揄される(そしてマジレス自体がネタとして消費される)ことになる。

ネタ的コミュニケーションの本質とは、このよな再帰的な運動の中でコミュニケーションそれ自身を自ら構成していくということだそのことは自体はもはや自己目的化しており、ネタ的コミュニケーションが何かの目的に向かうということはあり得ないだろう。

[お勉強]暴走するインターネット 鈴木謙介 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040329

ここでは、レスのコンスタティブな意味は、もはや意味がない。コミュニケーション継続が目的化される。そして、さらには、ネタ的コミュニケーションの目的化は、さらに「祭り」のように「フロー体験」的な快楽そのものを目的としている。それは、すなわち象徴界の他者」の快楽の継続において、現実界の他者」の快楽が表出してくる、ということであり、その先に、たとえば、「アイロニカルな没入」であり、ロマン主義シニシズムがある。

最近、2ちゃんねるは終わった。」という発言がある*1これに意味があるとすれば、ボクは2ちゃんねるスタイル」があまりに様式化されすぎ、「もはや2ちゃんねるにおいてコンスタティブ(マジ)なコミュニケーションは終わった。」というような意味ではないかと思う。




ブログという「マジ」


では、「マジ」はどこへいったのか。そう、ブログである。ブログは、かつてのホームページ、日記の閉鎖性にくらべれば、トラックバック、コメント機能など、コミュニケーション機能が充実しているが、掲示板に比べると、繋がりは緩やかであり、重点は、一つの自分の世界の構築として機能している。

「なぜブログのコミュニケーション機能は貧弱なのだろうか。」ボクはたとえば切込隊長BLOG(http://kiri.jblog.org/)のような2ちゃんねる式のコメント欄はたいへん有用だと思うのだが、はてななどの直接コミュニケーション機能の貧弱さは、一つには運営側の意図があるだろう。活発な直接コミュニケーションは、結局、「イマジネール(想像界の)な死闘」を生み、多くのトラブルが発生することが予測される。その処理のための労力を回避する目的があるだろう。またさらにブロガー自身も直接コミュニケーション機能の充実を望んでいないという面もあるのではないだろうか。2ちゃんねるとは違い、直接コミュニケーションの運営はブロガー自身にゆだねられることになるだろう。

かつてボクはブログを2ちゃんねるの周辺」としてとらえた。2ちゃんねらーとブロガーは多くにおいて同一人物である。活発な(ネタ的)コミュニケーションの場として2ちゃんねるを活用し、コミュニケーション的欲望を満たし、そしてブログとして「マジ」が確保されるというように、いま、二つは相補的な関係にあるのではないだろうか。

結局のところ「マジ」は、パロリチュール(文字会話)を回避し、緩やかなコミュニケーションにおいて、確保されたのである。しかしこれは、「ネットコミュニケーションは必ず失敗する」ことを示しているのだろうか。そしてこれは一つの挫折であるのだろうか。さらなる発展の形態だろうか。




2ちゃんねる化する社会


ほんとうに2ちゃんねるは終わったのだろうか?2ちゃんねるスタイル」は、ネットコミュニケーションが持つディスコミュニケーションを乗り越えるための一つの有用な社会的な儀礼を提示していると考えられる。このために、2ちゃんねるはもはや2ちゃんねるだけのものではなく、ネットに潜在的ディスコミュニケーションの対応方法として、(日本の)ネットそのものが、2ちゃんねる化しているのではないだろうか。

さらに最近、2ちゃんねる化する社会」と言われることもある。現代において価値が多様化し「まなざし」の共有の希薄化が、社会のディスコミュニケーションを生んでいる。さらにネットそのものが、もはや社会に欠かせないものになっている。ネット利用の拡大と共に、2ちゃんねるスタイル」が、あたらな儀礼として、拡散している面がある。そしてネット上の議論が、社会的な価値として、意味を持つことが起こっている。

たとえば、それは「アイロニカルな没入」であり、ロマン主義シニシズムと呼ばれる、不気味に「主体無き言葉」としての意味が立ち現れてくることにもあらわれている。

サイバーカスケードとは、ネット上に起こったイラク人質事件への自己責任論のように、「小さな発言」が集まって自己組織的に大きな力として立ち上がってくるものです。それが、良い方向に向かうと新潟地震に対する救済支援活動のネット上での展開のように動きとなり表れ、創発と呼ばれます。しかしサイバーカスケード創発性はネット上に現れる自己組織化現象であり、コントロール不可能な両義的なものです。

ようは、「そのうごめきには不透明さと無根拠さがつきまとうハイパーポピュリズムとでも呼ぶべきもの」である2ちゃんねる的なものにどのように対峙していけばいいのか、ということになるのではないでしょうか。今回の議事録からも、知識人たちに広がるこのようなコントロール不可能性へのショック=2ちゃんねるショック」とでも言うものがあるように感じました。・・・ネット上のただのおしゃべりが、「世界へ発せられる言葉」となり、自己組織的にサーバーカスケードとして現れます。それは、「主体なき言葉」です。

なぜ知識人は2ちゃんねるにショックをうけるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041204

たとえば、最近おこった中国での日本人排斥デモも、ネットコミュニケーションによるサイバーカスケードと呼べるだろう。そして、このような「主体なき言葉」は、「ネットコミュニケーションは必ず失敗する」故に、生まれている。』っといって見たがどうよ?
*2

*1:なぜ知識人は2ちゃんねるにショックをうけるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041204

*2:画像元 http://kikyou.sakura.ne.jp/~inuya/diary.html