なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか?(全体) 

pikarrr2005-06-30

コミュニケーションは「まなざし」によって成立する


ボクはネットコミュニケーションが大好きで、その可能性に期待しているが、信用はしていない。これはネットコミュニケーションを始めて、数年たち、いろいろ体験したボクの率直な感想である。


言語行為論に「コンスタティブ/パフォーマティブという考え方がある。たとえば母親が子供に「もう、好きにしなさい!」としかるとき、コンスタティブな意味、すなわち文章そのままの意味は「好きなようにしていい」であり、パフォーマティブな意味、その文章によって指示される意味は、「かってなことはするな」である。このようなパフォーマティブな意味=「真意」の読みとりは、それが言ったのは母親である、怒っている、などなどの、メタレベルでその場の状況(コンテクスト)が理解されて始めて、理解できるものである。

コミュニケーションは、本質的には「コンスタティブな情報を伝えあうこと」と理解されるが、コンスタティブな意味のコミュニケーションだけでは、意味は確定できない。

コンテクストないし文脈という概念を完全に無視しうる立場はありえない。それほどわれわれにとって「コンテクスト」は自明にして必須のものだ。「コンテクスト」を排除した瞬間、われわれは読むことも書くこともできない存在になる。

「フレーム問題」とは、ある行為ないし意味を選択するに際しては、フレームすなわちコンテクストが必要になるが、正しいコンテクストが与えられるためには、行為や意味が先行して選択されていなければならない、という逆説だ。人口知能研究が抱える原理的な困難のひとつがこれである。「文脈病」斉藤環 P294(ISBN:4791758714

どれだけコンスタティブな意味の説明を繰り返しても、すべてを伝え、理解してもらうことは不可能である。だから「誰が、どのような気持ちで、どのような状況」で、それを言ったのか、というメタレベル、すなわち象徴的なコンテクストとしての「まなざし」によって理解という「暗闇への跳躍」は成立しているのだ。それがヴィトゲンシュタイン言語ゲームであり、ラカン「コミュニケーションは必ず失敗する」ということでもある。




慣習的プラクティスの網


たとえば、「大都市のスクランブル交差点で人々はなぜぶつからずに歩くことができるのだろう」という疑問がある。それは慣れてしまえば、目をつぶっては無理でも、本を読みながらでも渡ることができるだろう。そこにはこの場合には相手はこのように動くというような「暗黙の了解」がある。しかしそれはあくまで自分の思いこみでしかなく、他者が必ずしもそのように動くとは限らない。それは「暗闇の跳躍」なのである。だから田舎から都会へ出てきた人の人混みの波に乗れない、ということが起こる。

そしてこのような「暗黙の了解」は、絶えず意識しなくとも、無意識(象徴界)という言語によってボクたちの中で書き込まれているのである。そしてゴフマンが「慣習的プラクティスの網」と呼ぶように、学習されていくものである。

われわれの経験とは、われわれの経験している通りのものではない。人は、慣習的プラクティスの網のなかにいて、ここかしこでこれを作動させては自分の信念を証拠だてる経験を得、また眠りにもどる。ときたま起こるさまざまなフレーミングの誤作動や破綻は、場のリアリティを揺るがし、むしろそれぞれの場のリアリティのプラクティカルな構成を強化・確定する方向に働く。当面の経験を離脱しようとするにせよ、二次的適応や自己欺瞞に従事しようとするにせよ、あるいはフレームを掃除/確認したり変容させようとしたりするにせよ、経験のなかにいる限り、人はフレーミングの循環を逃れることができない。「ゴフマン世界の再構成」安川一 (ISBN:4790704033

コミュニティの暗黙の強制力 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040624

目上の人には敬語を使う、子供をかばう、エレベーターの中で一人ごとをつぶやかない、真剣な場ではふざけない、医者への暗黙の信頼などなど、社会性はこのような「慣習的プラクティスの網」という他者との「まなざし」の共有関係で成り立っている。

しかしどんなにその場に馴染もうとも、このような「まなざし」は自分の中にしかない。「慣習的プラクティスの網」の他者との共有は、完全に一致することはなく、ある強度で共有されているように振る舞われているだけであり、いつすれ違うかもわからない「暗黙の跳躍」によって成り立っている。だからボクたちはたえず、意識せずとも「その場の空気を読む」ことを怠らないのである。




ネットという「無法地帯」


ボクは「まなざし」の共有の強度が、コミュニケーションを可能にしているといったが、これは他者との理解を確実にするということではなく、本質的に、「慣習的プラクティスの網」ように、社会の規範(象徴界)に拘束されることによって、意味の共有が可能になるということである。

だから「まなざし」の共有の希薄化は、逆説的に、社会的な拘束からの解放でもある。そしてネットコミュニケーションで起こっていることは、匿名性などによる「まなざし」の共有の希薄化であり、それによる従来の社会性からの離脱である。そしてそれがネットが「無法地帯」と言われる所以である。しかしこの「無法地帯」の意味は、単に非社会的な行為(荒らし)が横行しているというだけの意味ではない。

たとえば、ネット上はとても開放的なイメージがあるが、思いの外、閉鎖的である。多くは個人のホームページや、ブログ、あるいは興味を同じくする人たちの掲示板など、閉鎖的に、個人あるいは「知り合い」の小さなコミュニティで成り立っている。

だれでも経験があるだろうが、始めてレスをすることは、とても敷居が高い。また発言する場合には、細心の注意を払い、丁寧な挨拶のもとに発言する必要がある。それは、レスされる方がむしろ警戒するからである。なぜなら、レスする方はすでに過去ログをみて、相手のことを知っているが、レスされる方は、新参者がどこのだれかわからないものとして登場するからである。そしてこのような警戒は、新参者が荒らしである可能性があるからではなく、ネットには潜在的ディスコミュニケーションがあるためだ。




パロール(会話)とパロリチュール(文字会話)


ボクは、ネットコミュニケーション、特に掲示板、チャットの会話を、パロール(会話)とエクリチュール(文章)の中間で「パロリチュール(文字会話)」と呼んだ。

たとえば初対面の人との現前の会話(パロール)は、緊張を強いられるものである。そのようなときに、その人の会話のコンスタティブな意味を理解しながら、また平行して、懸命に場を読み、「まなざし」を共有させようとする。そのために、その人についての多くの情報をえようとする。その人の年、格好、容姿、表情、話し方、声の調子など、そしていままでの経験から懸命に、その人の「人物像」を作り上げる。

このような相手について情報は、初対面の人だけではなく、知り合いとの会話という「まなざし」の中でも、特に重要である。「あの人がいうなら」「あいつがいうことは」、というように、同じコンスタティブな意味でも、その「人物像」によって、理解の仕方は大きく左右される。

それに比べて、ネットコミュニケーションのパロリチュール(文字会話)では、テキストベースでコミュニケーションされるために、伝達される情報量が少ない。さらに、多くが匿名の他者であるために、特に相手の情報が決定的に欠落している。それは、書かれた文字そのままのコンスタティブな意味が伝わるが、メタレベルの「まなざし」が伝わりにくいことを表している。

たとえば先ほどの母親が子供に「もう、好きにしなさい!」という例を、ネット上の第三者で考えるみる。発信者は、「まなざし」がある強度で共有されているという錯覚のもと、「もう、好きにしなさい!」とレスするだろうか。それとも「まなざし」が共有されていないのだから、コンスタティブな意味として、「かってなことはするな」と送るだろうか。そして受け手側はそのテクストをどのように理解するだろうか。もしかすると、それは意味などない単なるコピペかもしれない。




ネットコミュニケーションにおける人格消費の欠落


ボクは、発話のコンスタティブな意味、そのままの意味を理解することを「記号消費」で呼び、また「まなざし」の中でも、特にその発話を「誰が、どのような気持ちで、どのような状況で、」発言したのかという、相手に関する情報を理解することを「人格消費」と呼んだ。

そしてネットコミュニケーションの特徴として、「まなざし」の中でも特に、その発言を誰が、どのような状況で、どのような気持ちを込めて、発言したのか、ということが伝わらず、欠落するということ、「人格消費」が決定的に欠落し、「記号消費」を重視して、コミュニケーションされる、ということである。*1

このような「人格消費」の困難は、「暗闇の跳躍」をより困難なものにして、ボクたちは宙づり状態におかれる。そしてこのような宙づり状態を回避するために、ボクらは懸命にその「真意」をとらえようと、問いかける「キミは誰?、どのような気持ち?」と。




「なぜコミュニケーションするのか」純化


しかしそれほどまでして、「なぜコミュニケーションするのか」、ということがある。特にネットはコミュニケーションを容易にしたが、それほど人は伝えることがあるのだろうか。コミュニケーションは、情報をつたえるために行われるのではない。人には伝えることなどそうそうない。そうではなくて、コミュニケーションすることが目的なのである。

だから、ネットコミュニケーションでは、「なぜコミュニケーションするのか」、ということが純化される傾向がある。すなわちなにかを情報を伝えるために、宙づり状態を回避するのではなく、宙づり状態を回避すること、「人格消費」することそのものが、欲望されるのである。「まなざし」の共有の希薄は、社会性を取り払い、他者が剥き出しになる。ディスコミュニケーションそのものが、すれ違いそのものが、「人格消費」を欲望することを加速するのである。

「ネットコミュニケーションは楽しい。」だからみな、ネットへ向かうのである。より困難であるはずの、ネット上の「暗闇の跳躍」が成功したように感じた時が、誰にでも経験があるだろう。それは社会的な慣例的な関係を越えて、「真意」を交換したように感じる。これが「ネットコミュニケーションの快楽」であって、ネット中毒が起こる要因だろう。




「イマジネール(想像的)な死闘」への転倒


しかしこのような純化は、「ネットコミュニケーションの快楽」を生むとともに、多くにおいては、真面目な議論が突然、人格をかけた「死闘」へと転倒し、その場そのものを破壊する可能性がある。現にボクは、私的な掲示板や、最近ではブログにおいて、ネット攻撃のような悪意あるもめ事ということでなく、お互い真面目な人々の些細な議論からフレーミングが発生し、それがその「場」そのものを巻き込んで、容易に閉鎖したのを、多く見てきた。

たとえば、ラカンによると、ボクたちは自分だけでは、自分が何ものであるか見いだすことができない。そのために他者との鏡像関係において、自分をが何ものであるか、見いだそうとする。それが、「欲望とは、他者の欲望である。」ということである。まさにここに「なぜコミュニケーションするのか」の意味がある。そしてこのような想像的な転移の関係は、「他者がほしがっているものがほしい」「他者のようになりたい」という、「イマジネール(想像的)な死闘」へ繋がる。

そして「まなざし」の共有は、「慣習的プラクティスの網」ように、社会の規範(象徴界)として人々を拘束することによって、このような「イマジネール(想像的)な死闘」を回避させているのである。しかしネットコミュニケーションでの「まなざし」の希薄化は、社会的な拘束からの解放でもあとともに、社会性を取り払い、他者が剥き出しするとともに、「人格消費」を欲望することを加速する。すなわち、「イマジネール(想像的)な死闘」への回帰である。

たとえば2ちゃんねる「論理で負けると人格攻撃!」というフレーズがある。コンスタティブな会話のやりとりで、宙づりにされた緊張が崩れたときに、相手の人格を攻撃する発言をする傾向がある、ということだ。コンスタティブな文章のフリをして、チクチク嫌みをいう、あるいは、「えらそうにいっても、引きこもりだろう。」「知ったかぶりだけだね。」などなどの中傷合戦になる。それはまた「人格消費」への欲望のシグナルでもあるだろう。

さらには、長崎女子小学生がネット上の些細なトラブルから、同級生を殺害した事件も、同様な些細な議論からの「転倒」によるものではないだろうか。

このように、ネット上のコミュニケーションは、容易に「イマジネール(想像的)な死闘」へ転倒する可能性を孕んでいる。それがネットが「無法地帯」と言われる所以であり、ネットが閉鎖的である理由でもあり、ネットコミュニケーションが失敗する理由である。




ネットコミュニケーションの純化「死闘」


たとえば初対面の人との現前の会話(パロール)は、社交辞令的な会話から入り、他者の容姿、表情、動きなどから、その人の「人物像」を作り上げながら、「まなざし」を共有していく。それは、社会的儀礼の中に互いに拘束しあう行為であり、それによって会話の意味を規定していくとともに、「イマジネール(想像的)な死闘」は回避される。

しかしネット上のパロリチュール(文字会話)では、他者の情報(人格消費)が決定的に欠落する。そのために「まなざし」の共有が希薄化し、社会的儀礼の中に互いに拘束しあうことが困難になる。それは上手くすれば、現前の会話(パロール)では、社会的な儀礼によって口にできなかった「本音」をいいあい、「暗闇への跳躍」に成功し、とても深く繋がりあえたという快楽を味わうことができるかもしれない。

しかし多くにおいて、このような他者との剥き出しの関係は、テクストの意味を宙づりにされたまま、「イマジネール(想像的)な死闘」へと転倒する。すなわち、ネットコミュニケーションでの安易な発言は、、意味が宙づりされた疑心暗鬼なものとなる可能性が高く、その発言は、過剰なほどに気を使った言葉で、行わなわれる必要があるだろう。




2ちゃんねるはなぜ成功したのか?


では、このようなネット上のディスコミュニケーションにおいて、2ちゃんねるはなぜこれほど活発なコミュニケーション場を作ることができたのだろうか。2ちゃんねるの成功は、突然起こったわけではなく、その前段階の先鋭的なネットサーファーたち(死語!)の様々な試みの繰り返しの結果としてあるだろう。

まず2ちゃんねるの有効性は、「名無し」を徹底したことだろう。「名無し」の場合には、フレーミング(言い合い)」が発生しても、相手を継続的に特定できず、「イマジネール(想像界の)な死闘」は一次的なものでしかなくなる。

しかし決定的に重要なものが、ボクが2ちゃんねるスタイル」と呼んだものである。2ちゃんねるでも、当然、あちこちで、「イマジネール(想像界の)な死闘」というマジとマジの対立が起こるだろう。しかし、2ちゃんねるでは、衝突すると「なにマジになってるんだ。マジのふりで言ってみただけだろう。」というメタレベルへ退避することがおこなわれる。

2ちゃんねるでは、「マジに没入せずに、たえずメタレベルの確保を忘れない」ということは、もはや「暗黙の儀礼であり、それが2ちゃねらーである。たとえば2ちゃんねる初心者や、マジな人は、マジで会話し、白熱したところで、2ちゃねらーが急に、「ネタにマジレス、格好悪い」とメタレベルへ退避する。このような対応は、悪ふざけでしかないとうつるだろうし、アイロニカルであるとともに、シニカルであり、真面目な人にはあまり気持ちの良いものではないかもしれない。

しかしこのような儀礼は、新たなひとつの「まなざし」の共有の形態であり、「イマジネール(想像界の)な死闘」を回避するひとつの社会性である。そしてこれによって、ネット上の言いたいことが言えるような環境が確保され、2ちゃんねるが集客に成功した大きな要因の一つだろう。




ネットコミュニケーションにおける4つのスタイル


ネットコミュニケーションにおいて、有効な方法として、主な4つの対応が考えられのではないだろうか。

① ROMに徹する・・・・これが一番無難ではある。

② 過剰な丁寧スタイル・・・・自己主張を極力さけ、相手を立てて、低姿勢で対応する。

③ 2ちゃんスタイル・・・・上述のメタレベルを担保しながら、言いたいこという。

④ データーベーススタイル・・・・「事実情報」のみをデータベース的に提示する。たとえば、パソコンの技術情報の記述や、最近のニュースの内容を、自分の感想を込めずに、「事実情報」として、提示する。これはいわば、オタク的コミュニケーション方法といえるだろう。オタクとは、ある領域のテクニカルな内容をより細部に向けて、データーベース化して提示してコミュニケーションする。単にその分野に共有の知識があるということで、コミュニケーションが成立し、「まなざし」の共有、すなわち社会的な儀礼へ拘束が必要とされにくい。すなわちメタレベルの意味が排除され、コンスタティブな意味のみで、コミュニケーションが成立する。

2ちゃんねるにおいても、このよな「データーベーススタイル」は有用である。たとえばボクはデジタル製品や、家電製品を買いたいときに、2ちゃんねるをデーターベースとして利用する。そこには多くの有用な生の商品情報を見つけることができる。




ネタ的コミュニケーションと2ちゃんねるの終焉」


2ちゃんねるは、ショッキングな事件としてマスメディアへ取り上げられたり、通信環境がよくなったり、することによって、さらに集客力を増大させた。ネット上では集まるところに人は集まる傾向がある。そしておそらく本来は、マジな会話を行うための回避策であった2ちゃんねるスタイル」は、2ちゃんねるスタイル」として様式化され、メタがネタとして、2ちゃんねるスタイル」そのものが目的化している。

ネタ的コミュニケーションとは、コミュニケーションそのもののテンプレートへの言及を重ねて行われる、すべてがネタであるかのように振る舞うコミュニケーションの形式。例えばある書き込みにレスをつける際に、2ちゃんねるではまじめに返答することが必ずしも求められない。むしろ本来返答すべき解答とは微妙にズレた回答をすることでおもしろさを演出していこうとする。さらに興味深いのは、そのようなズレた回答へのさらなる(ズレた)言及が、全体としてコミュニケーションを切断させることなく続けていくという点だ。すべてがネタである「かのように」振る舞うネタコミュニケーションは、どんなに本気にコミュニケーションをしようとしても周囲から「ネタ」として言及される対象なる可能性をはらんでいる。・・・ネタと了解されるものを本気でレスを返すと、「マジレス」を揶揄される(そしてマジレス自体がネタとして消費される)ことになる。

ネタ的コミュニケーションの本質とは、このよな再帰的な運動の中でコミュニケーションそれ自身を自ら構成していくということだそのことは自体はもはや自己目的化しており、ネタ的コミュニケーションが何かの目的に向かうということはあり得ないだろう。

[お勉強]暴走するインターネット 鈴木謙介 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040329

ここでは、レスのコンスタティブな意味は、もはや意味がない。コミュニケーション継続が目的化される。そして、さらには、ネタ的コミュニケーションの目的化は、さらに「祭り」のように「フロー体験」的な快楽そのものを目的としている。それは、すなわち象徴界の他者」の快楽の継続において、現実界の他者」の快楽が表出してくる、ということであり、その先に、たとえば、「アイロニカルな没入」であり、ロマン主義シニシズムがある。

最近、2ちゃんねるは終わった。」という発言がある*2これに意味があるとすれば、ボクは2ちゃんねるスタイル」があまりに様式化されすぎ、「もはや2ちゃんねるにおいてコンスタティブ(マジ)なコミュニケーションは終わった。」というような意味ではないかと思う。




ブログという「マジ」


では、「マジ」はどこへいったのか。そう、ブログである。ブログは、かつてのホームページ、日記の閉鎖性にくらべれば、トラックバック、コメント機能など、コミュニケーション機能が充実しているが、掲示板に比べると、繋がりは緩やかであり、重点は、一つの自分の世界の構築として機能している。

「なぜブログのコミュニケーション機能は貧弱なのだろうか。」ボクはたとえば切込隊長BLOG(http://kiri.jblog.org/)のような2ちゃんねる式のコメント欄はたいへん有用だと思うのだが、はてななどの直接コミュニケーション機能の貧弱さは、一つには運営側の意図があるだろう。活発な直接コミュニケーションは、結局、「イマジネール(想像界の)な死闘」を生み、多くのトラブルが発生することが予測される。その処理のための労力を回避する目的があるだろう。またさらにブロガー自身も直接コミュニケーション機能の充実を望んでいないという面もあるのではないだろうか。2ちゃんねるとは違い、直接コミュニケーションの運営はブロガー自身にゆだねられることになるだろう。

かつてボクはブログを2ちゃんねるの周辺」としてとらえた。2ちゃんねらーとブロガーは多くにおいて同一人物である。活発な(ネタ的)コミュニケーションの場として2ちゃんねるを活用し、コミュニケーション的欲望を満たし、そしてブログとして「マジ」が確保されるというように、いま、二つは相補的な関係にあるのではないだろうか。

結局のところ「マジ」は、パロリチュール(文字会話)を回避し、緩やかなコミュニケーションにおいて、確保されたのである。しかしこれは、「ネットコミュニケーションは必ず失敗する」ことを示しているのだろうか。そしてこれは一つの挫折であるのだろうか。さらなる発展の形態だろうか。




2ちゃんねる化する社会


ほんとうに2ちゃんねるは終わったのだろうか?2ちゃんねるスタイル」は、ネットコミュニケーションが持つディスコミュニケーションを乗り越えるための一つの有用な社会的な儀礼を提示していると考えられる。このために、2ちゃんねるはもはや2ちゃんねるだけのものではなく、ネットに潜在的ディスコミュニケーションの対応方法として、(日本の)ネットそのものが、2ちゃんねる化しているのではないだろうか。

さらに最近、2ちゃんねる化する社会」と言われることもある。現代において価値が多様化し「まなざし」の共有の希薄化が、社会のディスコミュニケーションを生んでいる。さらにネットそのものが、もはや社会に欠かせないものになっている。ネット利用の拡大と共に、2ちゃんねるスタイル」が、あたらな儀礼として、拡散している面がある。そしてネット上の議論が、社会的な価値として、意味を持つことが起こっている。

たとえば、それは「アイロニカルな没入」であり、ロマン主義シニシズムと呼ばれる、不気味に「主体無き言葉」としての意味が立ち現れてくることにもあらわれている。

サイバーカスケードとは、ネット上に起こったイラク人質事件への自己責任論のように、「小さな発言」が集まって自己組織的に大きな力として立ち上がってくるものです。それが、良い方向に向かうと新潟地震に対する救済支援活動のネット上での展開のように動きとなり表れ、創発と呼ばれます。しかしサイバーカスケード創発性はネット上に現れる自己組織化現象であり、コントロール不可能な両義的なものです。

ようは、「そのうごめきには不透明さと無根拠さがつきまとうハイパーポピュリズムとでも呼ぶべきもの」である2ちゃんねる的なものにどのように対峙していけばいいのか、ということになるのではないでしょうか。今回の議事録からも、知識人たちに広がるこのようなコントロール不可能性へのショック=2ちゃんねるショック」とでも言うものがあるように感じました。・・・ネット上のただのおしゃべりが、「世界へ発せられる言葉」となり、自己組織的にサーバーカスケードとして現れます。それは、「主体なき言葉」です。

なぜ知識人は2ちゃんねるにショックをうけるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041204

たとえば、最近おこった中国での日本人排斥デモも、ネットコミュニケーションによるサイバーカスケードと呼べるだろう。そして、このような「主体なき言葉」は、「ネットコミュニケーションは必ず失敗する」故に、生まれている。』っといって見たがどうよ?
*3

*1:「親切に」コンスタティブな意味できちんと発言した場合には、このような発言は、心理学的にも、冷淡で、怒りっぽく見えるようである。「(実社会では)温かい印象づくりの主要な決め手は、非言語的な手がかりである。・・・話の内容は、印象判断に用いられている他の手がかりに比べたら目立たない存在である。インターネットの世界では、どこへいっても主役は書き言葉だ。・・・サイバー空間では誰もが実際よりも冷淡で、達成志向で、怒りっぽく見える。[お勉強]インターネットの心理学 パトリシア・ウォレス その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040420#p1

*2:なぜ知識人は2ちゃんねるにショックをうけるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041204

*3:画像元 http://smokin.hp.infoseek.co.jp/imode.html