なぜブロガーはジレンマを抱き続けるのか?その3 知識人もどきの高級な楽しみ

pikarrr2005-09-01

2ちゃんねる/ブログの相補的な関係


最近、ブログはポスト2ちゃんねるのように語れることがあるが、「反響」、多様性、そして継続性の困難などにおいても、そのような位置にはないように感じる。しかしそもそもブログを2ちゃんねる対抗のように考える必要などない。ボクは以前、ブログは2ちゃんねると相補的な関係にあり、特に「マジ」を確保しているといった。

最近、2ちゃんねるは終わった。」という発言がある。これに意味があるとすれば、ボクは2ちゃんねるスタイル」があまりに様式化されすぎ、「もはや2ちゃんねるにおいてコンスタティブ(マジ)なコミュニケーションは終わった。」というような意味ではないかと思う。

では、「マジ」はどこへいったのか。そう、ブログである。ブログは、かつてのホームページ、日記の閉鎖性にくらべれば、トラックバック、コメント機能など、コミュニケーション機能が充実しているが、掲示板に比べると、繋がりは緩やかであり、重点は、一つの自分の世界の構築として機能している。

なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050630

ブログにはブログの面白さがあり、活用方法があり、2ちゃんねるには2ちゃんねるの面白さがある。運良く、ボクのブログはある適度の「反響」をもらえている。2ちゃんねるに比べて、「マジ」な労力をかけた分、ブログの「反響」2ちゃんねるに比べても、密であるように思う。




解体の2ちゃんねる/構築のブログ

2ちゃんねるでは、名無しであるために、継続した自己(他者)の同一性を保つことができない。そのために「祭り」によって、無理矢理に「まなざし」の共有が行われる。ネタはなんでもよい。みなが興奮を共有して、「祭る」ときにストーリーがうまれ、コンテクスト(まなざし)の共有感がうまれる。

それに対して、ブログの場合は、それぞれが実社会的には匿名ではあるが、自己(他者)の同一性が継続的に保たれる。それだけで、儀礼的にならざるいえない。・・・それは単にボクがカッコをつけいているとだけではなく、自己(他者)の同一性が継続的に保たれるとは、他者のまなざしによって(他者との差異によって)いるのであり、すでに、他者とネットワーク的に関係性に拘束されているのである。

なぜモヒカン族なのか。 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050711

2ちゃんねるのこのような感動を担保にする主意主義的な傾向は右翼的であるなどと言われるが、北田はこれを「ロマン主義的なシニシズムといった。またボクは2ちゃんねるのどのような言説もネタにされ、宙づりにされ、解体される傾向を脱構築装置」と呼んだ。ロマン主義的なシニシズムとは、このような言説の発散の中で、繋がりを確保する方法であるといえるだろう。

それに対して、ブログは、むしろ多様な話題よりも最大公約数的な話題を、「マジ」な言説として構築する傾向がある。2ちゃんねるから退避された「マジ」がブログで確保されるとき、それは、2ちゃねるでは「ネタにマジレス、かっこわるい」と揶揄された次元であり、「マジ」な言説で世界を記述できるというような主知主義的な左翼傾向であるといえる。

このような関係は、2ちゃんねる/ブログが、解体/構築のサイクルとして作動する可能性があることをしめす。このような2ちゃんねる/ブログの相補的な関係によって、ネットコミュニケーションの多様性が確保されていくといえるだろう。




「知識人もどきの高級な楽しみ」


しかしブログの「反響」、多様性、そして継続性を考えると、相補的な関係というには、まだまだいまのブログでは物足りないように感じる。2ちゃんねるの解体は、マスメディア的言説、そして「社会」そのものを射程にしている。それは、それらメディアに対抗する正当性があるということでなく、それらのメディアを「ずらす」というよく言えばアイロニカルな、悪く言えばシニカルなポストモダン的なスタンスである。

それに対して、ブログが目指すある意味、「時代遅れ」な言説による構築=「マジレス」は、はたして「知識人もどきの高級な楽しみ」の域から出ることができるのか。いやそれは「マジなふりというネタ」なのか。このような意味でも、「ブロガーはジレンマを抱き続ける」のだろう。当然、ボクも含めて・・・
*1