続 なぜ「コイズミ・オブ・ジョイトイ」なのか?
「ヘタレ保守」
「なぜ「コイズミ・オブ・ジョイトイ」なのか?」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050817にいくつかトラックバックをいただいた。特に「R30::マーケティング社会時評」さん(http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/09/metagame_5376.html)のところでは、そうそうたるメンバーのブログと並べていただいて、なにか「ブログ論壇」に加わったようで、嬉しい限りである。
政治のテクニカルな問題はあまり詳しくないし、またそのようなことを語るブログでもないが、いくつかのブログを見ると、「インリン・オブ・ジョイ」をもじって、「コイズミ・オブ・ジョイトイ」と言ったことで、コイズミを揶揄しているように捉えられ、またしらずしらずに「コイズミ・オブ・ジョイトイ」の自虐性に巻き込まれている、ということは、「コイズミはうまく国民を騙している」という意味にとらえられたようである。
要するに小泉首相って、「自分に血しぶきがかからない分には、小泉首相と抵抗勢力が戦ってるのをテレビで見ていたい」と国民に思わせてるだけだよね、という分析をしているのが「まなざしの快楽」のid:pikarrr氏による「なぜ『コイズミ・オブ・ジョイトイ』なのか?」と、それを引用し発展させた「猿虎日記」のid:sarutora氏。彼曰く、小泉首相もインリンも「ベタ」なのだ、だからそのベタを「メタ」視点から見て「これって演出でしょ?」とかニヤニヤ笑いながら見る快楽を視聴者(有権者)に与えてくれるのだと。つまり「メタ」の立場を確保しつつベタを笑えると思えるからこそ、有権者は「コイズミ・オブ・ジョイトイ」を支持するのであると。
R30::マーケティング社会時評 「都市型リベラルとか反対の反対とかメタゲームとか」 http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/09/metagame_5376.html
しかしボク自身は必ずしもそのような否定的な意味でいったわけではなく、はっきりいって、ボクは今回は「小泉支持」、宮台のいう 「ヘタレ保守」なわけだ。
小泉支持は、旧保守でなく、新保守=都市型保守です。背景にあるのが九〇年代を通じた旧保守から新保守への地殻変動。「新しい歴史教科書をつくる会」「2ちゃん右翼」が象徴的です。過剰流動性と生活世界空洞化で不安になって「断固」「決然」の言葉に煽られる「ヘタレ保守」です。 ・・・多様な仕事、多様な趣味、多様な家族、多様な性を、自由に選べそうで、実は選べない。制度的に選べないのに加え、主体の能力が低いので選べない。鬱屈と嫉妬が拡がるばかりです。
そうした国民は、「決然」「断固」に象徴される小泉的振舞いからカタルシスを得ます。現に都市部の若者は「気持ちいい」と口々に語る。それが新保守の感情です。
MIYADAI.com Blog 「民主党がとるべき道とは何か」 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=283
小泉の「断固」「決然」な「マジ」にアイロニカルでありながら、「気持ちいい」と巻き込まれているのであり、小泉はまだやれる、だから応援したくなった、ということをいっているのだ。
人は必ず「巻き込まれて」いる
ボクはブログは、「知識人もどきの高級な楽しみ」か、といった。
ブログが目指すある意味、「時代遅れ」な言説による構築=「マジレス」は、はたして「知識人もどきの高級な楽しみ」の域から出ることができるのか。いやそれは「マジなふりというネタ」なのか。このような意味でも、「ブロガーはジレンマを抱き続ける」のだろう。当然、ボクも含めて・・・
「なぜブロガーはジレンマを抱き続けるのか?その3 知識人もどきの高級な楽しみ」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050901
ブログには、強烈な「まなざしの快楽」があり、なにかもっともらしいことを書いて、悦に入ってしまうことの「気持ち悪さ」に対するアンチテーゼの意味がある。書いて、アップする。俯瞰してみて、にやにや、してしまう。「なんかオレごっつええこと言ったで」とほくそ笑んでしまう。 ようするに、ブログなど「知識人もどきの高級な楽しみ」なんだよ。ということを、自分に言い聞かせるアイロニカルな位置をたえず確保したいという、ボク自身のバランスの取り方でもある。
なぜならば、人は必ず「巻き込まれて」いるからだ。「巻き込まれている」ことを否定すること自身が、「巻き込まれている」ことそのものだということだ。
「巻き込まれている」ことを認めることからはじめよう
ボクが 「なぜ「コイズミ・オブ・ジョイトイ」なのか?」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050817でいったのは、小泉に「巻き込まれている」ことが悪いこと、「騙されること」だといったわけではなく、「旧保守」だろうが、「新保守」だろうが、「都市型リベラル」あろうが、最後は理屈ではなく、個人の「趣向」の問題でしかなく、なんらかに「巻き込まれている」ということだ。これはジジェクがいう、リアリティは対象aに関係しているという意味でもある。すなわちそれをリアルに感じるということは、そこに欲望が隠されているということである。だからといって、これは、議論することに意味がないということとは、まったく違う。
小泉の「断固」「決然」の言葉に煽られて「ヘタレ保守」に「巻き込まれた」ならそういい、小泉反対なら反対と言えば良い。すなわち「巻き込まれている」ことを認めることから、はじめよう、ということだ。
「騙されたくない」と、メタのメタのメタとさかのぼることは「(ジジェク的言えば)典型的な強迫的不安」であるとともに、無償でブログへ労力をかけるブロガーにとっても、欲望を煽る「知識人もどきの高級な楽しみ」とも言えるのではないだろうか。ん〜「なんかオレ今日もごっつええこと言ったで」