「のまネコ」インスパイヤ問題はなぜ「戦争」なのか その2 安心して閉じられる場所

pikarrr2005-09-24


のまネコに関するエイベックスネットワーク株式会社の発表について

先般エイベックスネットワーク株式会社が発表したのまネコの商標出願(出願人:有限会社ゼン)について、説明申し上げましたが、言葉足らずのところがあり、みなさまに誤解を生じさせ、混乱を招いたことにつきまして、関係者の方々ならびに関連するみなさまにまずはお詫び申し上げます。

わたしたちはビジネスを行っておりますから、プロモーションの結果生じた市場の反応に対応してさらにその活躍の場を広げていきたいと常に考えております。しかし今回出願した商標につきましては、あくまでもグッズとして展開されるキャラクターののまネコのみであり、当然のことではありますが、わたしたちが、モナーの利用に対して権利を主張することは一切ありませんし、他のアスキーアート(例:しぃ、モララーなど)に対しても同様です。再度申し上げますが、あくまでも商品開発におけるのまネコに限定した商標登録出願でしかありません。

今回モナーを始めとするアスキーアートキャラクターを愛し育ててきたみなさまに対する配慮が足りなかったことは、エイベックス・グループとして反省いたしております。

今後、わたくしたちは、いわゆるネットコミュニティのみなさまともより一層深いコミュニケーションをとらせていただきながら 、多くの人々に楽しんでいただけるクリエイ ティブなエンタテインメント・コンテンツを世の中に出して参りますので、よろしくお願いいたします。

エイベックス・グループ・ホールディングス株式会社 2005年9月23日
http://ecweb1.avexnet.or.jp/sa4web/050908noma.htm


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倫理的「開かれ」と処世的「開かれ」


ポストモダンとは簡単には疑いつづけることである。自分が「閉じてないか」「開いているか」、問い続けることである。そして「開くこと」に強度が必要とされるのは、「自分であるとは閉じることでしか見いだせない。」ためである。疑うとは、自分自身を疑うことである故に強度が必要とされるのである。

このように開き続けることは、他者へと開くことであり、倫理的な意味があるとされる。しかしこのような倫理的な意味以上に、現代において閉じることは危険である。価値観がめまぐるしく変わる中で、閉じてしまうと、回りと協調することが困難になり、排除されてしまうからだ。これが人々が「空気を読む」ことに敏感である理由である。

倫理的な「開かれ」とは、内部/外部の境界をなくし、外部に排除された人々を救済するということであるが、空気を読む的、すなわち処世的な「開かれ」は、内部に居続け、外部へ排除されないためのものである。このために、処世的な「開かれ」は、むしろ積極的に外部を作り出す傾向がある。スケープゴードとして外部を作ることによって、自分の帰属する内部を作り出すという、「閉じられ」をめざす。

オヤジの女子高生への媚は閉じていることを指摘されることの恐怖であるし、ネット上でたえず情報に敏感でいることことの強迫観念しかり、私は回りとはずれたところで閉じていないか、ということである。

倫理的「開かれ」・・・デリダ、ローティ的開かれ。徹底的に外部(他者)に開きつづけ、内部と外部の対立を脱構築していく倫理的態度。

処世的「開かれ」・・・閉じていては価値の変化についていけず周りから排除されるため、空気を読み、開きつづける。しかし開くことにより空気という内部に閉じる。また外部を排除することにより空気という内部を作り出す。




開きつつ閉じる


たとえは2ちゃんねるで生きる方法はマジになったら負けなのである。たえずアイロニカルな、俯瞰した視線を保ちつづける必要がある。それは現代の処せ術そのものである。現代人は、倫理的「開かれ」、寛容であることに価値をもつ。それは現代の処世術そのものである。「閉じつつ開く」ということである。

しかし多くにおいて、倫理的「開かれ」と処世的「開かれ」の境界は意識されていないだろう。だから「開かれる」強度が求められるとき、容易に「閉じる」「寛容」は容易に「不寛容」に転倒する。開き続けようという人が、急激に閉じて、アイロニーからシニカルへ、または感動へ、そして信仰へと閉じる。

これは容易に責めるようなものではないだろう。倫理的「開かれ」は理念的なものでしかなく、開かれていくほど、閉じると言える。閉じつつ開き、そして開きつつ閉じる。




安心して閉じられる場所


小泉が歴史的勝利をした。「ボクも「コイズミ・オブ・ジョイトイ支持である」、と言った。政治に関心がない日本人が、久しぶりに熱狂したが、それは小泉への閉じていく「感動」であった。ボクが「コイズミ・オブ・ジョイトイを呼ぶのは、インリン・オブ・ジョイトイと同じく癒し系であるとも言える。「みじめなボクを助けてください」「みんなこのまま改革を止めてもいいのですか?」という誰もが安心して「NO!」「閉じる」ことができる場所と状況を確保したのである。「Wカップでは、日本人は日本を応援してもいい。相手国を敵として見ても良い」というぐらいに、「閉じる」ことができる場所と状況である。

それはまた「頭の悪く、可哀想な異邦人への愛」という誰もが安心して閉じることができる場所と状況を確保するインリン・オブ・ジョイトイと同じ構造なのである。それは、倫理的「開かれ」を目指す強者もひとまず、休んで「閉じられる」癒しの場所である。

開き続けようとする強度故に、アイロニーからシニカルへ、または感動へ、そして信仰へと、安心して閉じられる場所を求める。開き続ける故に、イラク人質は排除され、「小泉」は支持され、そしてのまネコ問題宗教戦争なのである。