「のまネコ」インスパイヤ問題はなぜ「戦争」なのか その3 「のまタコ」祭り

pikarrr2005-09-26


のまタコについての公開質問状■
 
2ちゃんねるという掲示板の管理者をしております西村と申します。のまタコというキャラクターの独自展開を考えており、商標登録とグッズ展開にあたり何も問題がないことを確認致したくご連絡差し上げました。勝手ではございますが、7日以内でお返事が頂けない場合は黙認されたと解釈させて頂きます。それでは、宜しく御願い致します。

のまタコ説明文
のまタコは、2chVIP板で生まれました。のまタコは、伝統的な馬の鞍につける水袋の紋章にインスパイヤされてキャラクター化され、VIPPERが今回の風刺にあたって新たなオリジナリティーを加えてキャラクター化したものですが、AVEX様において浜崎あゆみロゴ」の、Aを用いたロゴマークを使用されることを何ら制限するものではございません。

わたしたちはビジネスを行っておりますから、プロモーションの結果生じた市場の反応に対応してさらにその活躍の場を広げていきたいと常に考えております。今回出願する商標につきましては、あくまでもグッズとして展開されるキャラクターののまタコのみであり、当然のことではありますが、わたしたちが、浜崎あゆみロゴ」の利用に対して権利を主張することは一切ありません。

今後、わたくしたちは、いわゆる音楽業界のみなさまともより一層深いコミュニケーションをとらせていただきながら 、多くの人々に楽しんでいただけるクリエイティブなエンタテインメント・コンテンツを世の中に出して参りますので、よろしくお願いいたします。
上記説明文は、御社のコメントを参考にさせて頂きました。http://ecweb1.avexnet.or.jp/sa4web/050908noma.htm

2005年9月24日 西村博之 http://2ch.net/nomatako/


関連2ちゃんねるスレッド
インスパイヤ2ちゃんねるひろゆき氏、エイベックスに"のまタコ"についての公開質問状送付★19
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1127692648/l50




のまタコ祭り


のまタコ祭りになっていますね。このひろゆきの行動には賛否両論あるのではないだろうか。それはこれが著作権などの法的なの問題ではなく、ボクが言ったように宗教戦争だからだ。おそらく著作権等の法的な判断では、ひろゆきは勝てないだろうが、そこが問題なのではなくて、のまタコはエイベックスの「女神」浜崎への冒涜なわけだ。これは、神性の問題なんだね。のまネコで精神性を汚されたことへの報復なんだね。

そしてこのようなひろゆきの対応は、掲示板の管理人というよりも「宗教指導者」的な振る舞いのような気がするからだ。実際に2ちゃねらーのひろゆきへの反応はそのような感じがある。たしかに面白いなあとは思うが、またボクは管理人として、やりすぎかなとも思った。




直接民主制ような審判の「舞台」


フジテレビとライブドアのとき、日枝久会長などがなぜわざわざ毎日テレビにでて、しゃべるのかという指摘があった。すなわちあの時点でホリエモンは舞台を用意して、引きずり出している。これは、最近の衆議院選挙のときも同じだった。小泉首相がやったことは、衆議院選挙という舞台に反対派を引きずり出したということ。

そして今回のひろゆきも同じ方法だと言える。のまタコによって、著作権など法的な問題として決着しているのでと、逃げ切ろうとするエイベックスを舞台の上に引きずり出す、ということだ。法的に許されれば解決なのか、そこに「民意」という審判を問うということだ。参議院で否決されたから廃案とされても良いのか、「民意」に問うてみたい。

このような「舞台」が成り立つのは、あたかも直接民主制ような審判の「舞台」があるような状況ができあがっているということ。このような政治的、社会的な問題への影響への自覚は、目新しいものではないが、いまの流れは、ネット社会になってから顕著になったのだろう。

少し前は結局外部の問題で傍観者でしかない「民意」が、2ちゃんねるなどのネットによって、自分たちの「小さな意見」が社会に反映される経験を繰り返されている。その昔では、東芝のクレームセンターの対応の悪さをネットで公開することによって、東芝が対応に苦慮するというようなことなどから、イラクの人質の自己責任問題など、あびる優問題など。




サイバーカスケードという熱狂

開き続けようとする強度故に、アイロニーからシニカルへ、または感動へ、そして信仰へと、安心して閉じられる場所を求める。開き続ける故に、イラク人質は排除され、「小泉」は指示され、そしてのまネコ問題宗教戦争なのである。

サイバーカスケードという熱狂は、ポストモダンで価値発散する社会と言われる中で、大変面白い。「祭り」は、このような直接民主制ような審判の可能性への熱狂によって生まれている。盛り上がれば、それが大きな力になるのではないか。そしてそこにはたぶんに反響そのものを楽しむという醜悪さも大きいのだが。またそこには「みんなで閉じれば怖くない」「こんなことでしかもはや閉じられない」という繋がりへの欲望がある。

このような傾向は、のまネコぐらいなら良いが、イラク人質のときなどはこの熱狂が明らかな社会的な暴力になったわけで、怖くもある。しかしさらには小泉であり、ひろゆきであり、そこに煽動する指導者の姿がみえるときに、サイバーカスケードの操作という可能性も見えてくるときに、さらに怖いものがある。「安心して閉じられる場所」を提供する指導者。小泉歴史的勝利のあとに人々は「あそこまで勝つとは、勝たせすぎたのでは」と感じたのも同様な怖さだろう。

ボクは、「2ちゃんねる脱構築装置である」といったように、次の瞬間には、このような「閉じられ」をまた「開いていく」浄化力がネットには備わっていることを期待する。

のまタコTシャツでたら、買おうかな・・・