iPodはなぜ人気なのだろうか。
iPodの「カッコよさ」
iPodはなぜ人気なのだろうか。iTunesなどいくつかの魅力はあるが、他社製品よりも価格的に魅力があるわけではなく、機能的、そして音質が飛びぬけているわけでもない。むしろ様々な面で劣ってすらいる。ではなにが魅力であるかといわれると、一つは「スタイル」と言えるだろう。
たとえばボクのiPodも1年近くたったが、バッテリーが弱ってきた。しかしiPodのバッテリー交換は、公式にはアップルに送って新品を買うのと近い金払って交換しないといけないことになっている。これは、余計なものを排除した「シンプル」な外観という「カッコよさ」にこだわったためである。
これは、「おしゃれ」そのものにも繋がる。「おしゃれとは着飾るものではなく、どれだけ排除できるだ。」たとえば、アキバ系的オタクのかっこわるさは、過剰さにある。オタクの語源の一つに、街にでるとき、いろんな資料を抱え込んでまるで一つの「家」のようだ、という説がある。それは心理的な防備であって、神経症的な過剰、自信のなさを示しているとも言われる。iPodの「カッコよさ」は製品の過剰さを排除するストイックさであるといえる。
しかしiPodの魅力を支えるのは、「シンプル」な外観という「カッコよさ」だけではない。以下の記事では、iPodのブランド戦略としてのメッセージ(思想)とは、「スローライフ」であると、言及している。
日本製の「ハイテク」プレイヤーとiPodとの間には、競争力という点でいかんせん動かしがたい何かがある気がしてならなかった。そんなもやもやとした疑問を吹き飛ばしてくれたのは、本家Appleの方の「iPodはスローライフを目指しているんです」という一言だった。・・・Appleの幹部の方は・・・iPodの「スイス・アーミー・ナイフ化」を当然のように否定した。・・・ハイテク製品のスローライフ志向。ある意味、新鮮にも見える視点ではないか。
シンプルなデザインだけではなく、スローライフという秘めたメッセージによってプレミアムを加えたAppleの戦略は、・・・常になんらかの学習を強要するハイテクに対して潜在的な嫌悪感を持つ人を魅了するものであり、単純に好きな音楽をたっぷりと聴きたいという、常に快適な状態にいることを至上価値とするサル化したヒトの欲求に応えるものになっているのではないだろうか。
「スローライフを志向するiPodの強み」 森祐治
http://japan.cnet.com/column/mori/story/0,2000050579,20086359,00.htm
「サル化」とiPod
さらにこの記事では、「スローライフ」と現代人の「サル化」が共鳴しているとしている。
京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の新刊『考えないヒト−ケータイ依存で退化した日本人−』・・・と共通するメッセージは、どこでも多様な形式でコミュニケーションできるようにした個人向けツール=ケータイが、現代人の行動様式をサル化しているというものだ。・・・自身の内部で緻密に作り上げた計画に従って何らかの目的を達成するよりも、コンサマトリー(即時報酬性の高い刹那的で自己的な行為)なコミュニケーションや消費を好むようになり、ついにはこれまでの価値観であれば十二分に耐えられる程度であっても不快と感じて、そんな状況に対して反射的に行動を起こすといった「動物的」な行動様式をとるようになりつつある。
「スローライフを志向するiPodの強み」 森祐治
http://japan.cnet.com/column/mori/story/0,2000050579,20086359,00.htm
たとえば、いままでのウォークマンと異なった、iPodの楽しみ方として、「何千曲をぶちこみシャフルする聴き方」がある。たとえばこれは、かつての音楽ファンからすると、そこに有線並のBGMで音楽で聞くことであり、「音楽への冒涜である」、という考え方もできるかもしれない。
昔は「アルバム」というものはなく、シングルの寄せ集め的なものでしかなかったが、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」によって、「アルバム」という完成された作品表現が現れた、と言われる。こ曲順、構成、さらにはアルバムジャケットという大きな「画面」も含めて、一つのメッセージであった。
CDになり、このような「アルバム」という完成品という感じが薄れてきているのかもしれない。さらには、もはや人々の速度が、「アルバム」を聞き込むことに耐えられなくなっている。良い悪いが、好き嫌いになり、「コンサマトリー(即時報酬性の高い刹那的で自己的な行為)」へとその感度の応答性が速くなっている。
応答高速化とiPod
「サル化」は、東の「動物化」と同様なことを言っているのだろう。「何千曲をぶちこみシャフルする聴き方」と「音楽への冒涜」は、コジェーブ的な「動物/人間」の対比として考えることができる。音楽には論理があり、アルバムにはコンセプトがある。それを受け取ることが、「人間的な音楽」の楽しみかたで、ただただノリ的に聞くのは「動物的楽しみ方」ということである。
快楽の高速化、、「コンサマトリー(即時報酬性の高い刹那的で自己的な行為)」、瞬時に快楽を生むものを求める傾向。なぜこのような傾向があるのか。
【東】僕はすべての根幹には「工学的な知」の問題があると思うんです。産業革命以降、私たちの世界では工学的な知の重要性がどんどん上昇している。この二世紀のあいだ世界を変えたのは、実は文学部でも理学部でもない、工学部の力だったんですよ。
そしてその力はいまも拡張し続けている。経済学は金融のエンジニアリングになってしまっているし、ヒトゲノムのデータベースが整備されれば、医療もエンジニアリングになっていくでしょう。脳科学や認知科学が進んでいけば、私たちの意志や信念もエンジニアリング的に説明されていく可能性がある。実際、薬物や洗脳の問題というのは、まさに私たちの脳が工学的に操作可能だから起きるわけです。
社会のデータベース化や主体の動物化という現象は、実はこういう変化の果てに生じているわけで、八〇年代や九〇年代といった枠組みよりも広い問題なんですね。だから僕は、それはもう止められないと思う。
その工学的で動物的な世界のなかでは、データベースから抽出されたシミュラークルを次から次へと交換することでなんとなく生きていく人々が大多数を占める。浅田彰さんの華麗な文章を読んで「よしきた」と反応している人々は、結局ポストモダニズムのデータベースに反応しているにすぎない。これは「猫耳」に反応しているのと構造的に変わらない。
宮台・東対談〜『動物化するポストモダン』を読む〜 http://www.miyadai.com/texts/animalize/
ボクもこの「工学的な知」根幹説に近い考えである。下部構造にテクノロジーのフィードバック速度(応答性)がある。ということになる。情報技術においては、人の身体と外部の情報技術に境界はなくなる。情報網の一部として、人の身体があって、テクノロジーが発達し、情報伝達速度が上がると、人の身体反応も高速化への対応が求められる。
たとえばテレビ番組のザッピング、2ちゃんねる、あるいはテレビゲームなどの反射的反応。それは快楽であるとともに、慢性的なストレスでもあるだろう。
かつて聞いたことがあるが、夫婦でくらしていた夫が単身赴任して一人暮らしすると、夜更かしになるらしい。一人暮らしのボクはなんとなく納得した。一人だとよる遊べるとか、他者にあわせる必要がないというだけでなく、簡単にはさびしくて眠れないのである。さびしくて神経症的に「間」を埋めようとして、テレビをザッピングする、ネットをするなどを繰り返し、寝るほどに気持ち落ち着かないのだ。
先に「Appleの戦略は、シンプルなデザインだけではなく、スローライフという秘めたメッセージにあり、単純に好きな音楽をたっぷりと聴きたいという、常に快適な状態にいることを至上価値とするサル化したヒトの欲求に応えるものになっている。」ということに対して、移動中まで「間」を埋めるように音楽聞く必要があるのか、ということがいえる。最近なら「間」を埋めるのはケータイだろうが、わずかな「間」も埋めようと音楽を聴くことは、「スローライフ」どころか、神経症的所作である、というわけだ。たとえばボクは移動中は音楽を聞いているが、長期休みのあとだったり、リフレッシュしたあとなどではイヤホンで音楽を鳴らし続けることに、逆に圧迫に感じたりする。
社会の速度が早まる中でだれもが様々な場面でストレスを受ける。競争社会であったり、満員電車であったり、ストレス社会と言われる。そのような疲労の中で「間」に不安は回帰する。抑圧したものが回帰する。回帰を押さえるために様々な方法で「間」をつぶすのである。特に一人では不安は内部で解消されず、たまり続ける。「間」をつぶして解消したと思っても、「間」が空いた瞬間に不安は回帰する。
ボクはかつて「なにもせずにいれますか」と聞いた。テレビもネットも本も音楽もなくいる。外的刺激を排除した「間」にたえられるだろうか。「スローライフ」とはそのような神経症的「間」に追い立てられないような生活だろう。それは、むしろiPodのいらない生活ではないだろうか。
「スローライフ」という過剰性
無印良品の商品の特徴は簡潔であることです。極めて合理的な生産工程から生まれる製品はとてもシンプルですが、これはスタイルとしてのミニマリズムではありません。それは空の器のようなもの。つまり単純であり空白であるからこそ、あらゆる人々の思いを受け入れられる究極の自在性がそこに生まれるのです。
「スローライフ」に「スローライフ」的「無印良品」は必要なのだろうか。むしろ「スローライフ」への神経症的な所作が、「無印良品」を成立させているのではないだろうか。本当の「スローライフ」では、iPodは必要がないが、「スローライフ」への神経症的な所作がiPodへの欲望となっているのではないだろうか。
シンプルなiPodは、ハイテクの進化とそれをそのまま受け入れた生活こそが唯一の道という価値観にアンチテーゼとしてのインサイト(知見)を与えてくれていたのではないかと思う。・・・ケータイのスイス・アーミー・ナイフ化に代表されるテクノロジーの過剰な消費も、行動や価値観において「サル化」というコミュニケーションの退化に見られるような文化の外部化、そして外部化を越えた文化そのものの消費が進行するとき、われわれを取り囲む情報家電は、インテリジェントでありながらも、シンプルでかつスローライフなスタンスを持ったものの方がよりフィットするようになるのかもしれない。
「スローライフを志向するiPodの強み」 森祐治
http://japan.cnet.com/column/mori/story/0,2000050579,20086359,00.htm
iPodは新たな欲望の形態を提示しているのである。ケータイのアーミー・ナイフ化という過剰い対して、iPodのシンプル化という過剰。それは「スローライフ」ブームという過剰性でもあるだろう。そのような神経症的過剰性において、iPodは欲望されているのである。
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