動物化とヘタレ化のメビウスの輪 <なぜ「ヘタレ化するポストモダン」なのか? その2>

pikarrr2005-10-31

快楽のデーターベース化


「ヘタレ化」を語るときに、避けては通れないのが、動物化である。東の動物化では、テクノロジーの発展が決定的な意味をもつ。

【東】 僕はすべての根幹には「工学的な知」の問題があると思うんです。産業革命以降、私たちの世界では工学的な知の重要性がどんどん上昇している。この二世紀のあいだ世界を変えたのは、実は文学部でも理学部でもない、工学部の力だったんですよ。そしてその力はいまも拡張し続けている。経済学は金融のエンジニアリングになってしまっているし、ヒトゲノムのデータベースが整備されれば、医療もエンジニアリングになっていくでしょう。脳科学認知科学が進んでいけば、私たちの意志や信念もエンジニアリング的に説明されていく可能性がある。実際、薬物や洗脳の問題というのは、まさに私たちの脳が工学的に操作可能だから起きるわけです。

社会のデータベース化や主体の動物化という現象は、実はこういう変化の果てに生じているわけ、・・・だから僕は、それはもう止められないと思う。・・・その工学的で動物的な世界のなかでは、データベースから抽出されたシミュラークルを次から次へと交換することでなんとなく生きていく人々が大多数を占める。

宮台・東対談 〜『動物化するポストモダン』を読む〜 http://www.miyadai.com/texts/animalize/

動物化」を可能にするのが、テクノロジーによる高速な「反復」である。「反復」はデーターベース化され、思考よりも速く、生理的な快楽へ直結し、快楽を与えていく。

たとえば、かつては性的な経験は、容易に得られなかったために、日々もんもんと想像した。それが情報化され、データーベース化され、欲しいエロ画像、エロ動画が容易に手にはいるようになる。まだまだ生身のセックスを再現するには物理的な制約が存在するだろうが、物理的制約を最小限に止めて、すべてをデータ化して、反復することを可能にした。

今でも、童貞は生身の女性を欲望するだろうが、かつての童貞とは違い、ただ想像の世界ではなく、情報の世界で様々な経験をするのである。もはや、情報世界の中では、空も飛べれば、かわいい女の子を思い通りに操ることもできるし、大金持ちにもなれ、人を殺すことも容易な、限りなく「自由な世界」が、反復されるのである。




ヘタレは「汚物」へ向かう


たとえば、ポップミュージックは、限られた音とリズムでできており、似たような曲がたくさんある。だから人が快楽するフレーズをデーターベース化して、供給すればよいように思う。しかし計算して、ヒット曲を出すことがむずかしい。それは、計算されたものからズレたものを人々が要求するからである。

そして、そのようなズレたものは、醜悪である。たとえば、かつてロックミュージックはうるさいだけの騒音と言われ、プレスリーは悪魔の音楽と言われた。そこには、ボクが「汚物」と呼んだ過剰性がある。それが、人間の欲望の特性である。かつての誰が、倖田來未のようなストリッパーまがいの腰ふり女のアルバムが100万枚のヒットになると、考えただろうか。(ボクも買ったわけだが・・・)

人の欲望の過剰性は、テクノロジーの応答性に還元された反復からズレていく。そしてテクノロジーは、日々そのズレを追いかける。なぜ資本主義社会は、物質的に満たされても、自分たちの住む環境を破壊し、まるで自滅の道を進むように、暴走するのか、の答えはここにある。

現代の情報化は、この欲望のズレへの対応速度が上がることによって、動物化が進む。しかしズレによって、「ヘタレ化」も加速させている。

欲望する→テクノロジーが発達する→テクノロジーが欲望においつき、動物化する→満足から欲望がズレていく→より過剰に欲望する=ヘタレ化する→(循環)




動物化とヘタレ化のメビウスの輪


このようなズレは単なる刺激の差異ではない。刺激のズレへの対応はテクノロジーのもっとも得意のするところである。そうではなくて、テクノロジーの反復ではこぼれていくものとは意味の次元である。テクノロジーの高速化を可能にしているのは、「なんのために」と問う意味の次元を排除し、ただ反復するからである。

この点を宮台は的確に指摘している。

【東】 僕は・・・「萌え」と呼んでいるわけですね。パターン認識の訓練だけで、猫耳でもいいし「シャネル」でもいいけど、ある記号を見た瞬間に勝手にドーパミンが出るようになってしまった消費者がいまや大量に存在している。それをどう扱ったらよいのか。これはいままでの社会は考えてきていない。スノッブな消費者は、記号的差異に対して意識的に反応していた。けれども動物化しデータベース化してしまった消費者は、記号的差異に身体的に反応してしまうわけですよ。これはやはり以前とは違うでしょう。

【宮台】 エンジニアリング的思考と人間的営みとは──認知科学的な外的視点と文科系的な内的視点とは──表を辿ると裏に回り裏を辿ると表に回るメビウスの輪の関係になるしかなく、どちらかだけでは一貫できません。

流動性の中で不安定な状態にある者が、そうやって安定化するプロセスでは「幸せ感」が上がるけれど、一旦安定化すると、今度は急速に不幸せになっていく。死んでいるのか生きているのか分からない感じになるからです。・・・今は猫耳でいいけど、いつまで猫耳でやっていられるのかという問題ですね。猫耳の後は、豚の尻尾とかいって(笑)、三つ四つ移動しているうちに死ねるとしたら、それでいいのかもしれないけど、現に僕はそうやって移動すること自体ダルくなっちゃった。

宮台・東対談 〜『動物化するポストモダン』を読む〜 http://www.miyadai.com/texts/animalize/

動物化によって人は反射的な「幸せ」に入っていくが、それだけでは充足できずに、ダルくなり、「強迫的」に欲望を加速させるのが、「ヘタレ化」というわけだ。

そして意味の次元が、「汚物」であるのは、究極的には「私の意味」へ繋がるからだ。テクノロジーが発達し、高速な反射が、欲望を満足しつづけ、動物化していくと、意味が消失し、そこに虚無感が生まれる。そして反動として、「私は誰?なんのために生きているの?」が求められる。それには答えがない故に、過剰なのであり、「汚物」なのである。現代はこのテクノロジー「ヘタレ化」の競争が過剰になっている故に、現代のヘタレはいつも過剰なのである。