ヘタレマップ <なぜ「ヘタレ化するポストモダン」なのか? その3>
「極プチクリ」
昨日の『爆笑問題のススメ』は、岡田斗司夫さんの「プチクリのススメ」でした。プチクリとは「プチクリエイター」のことで、簡単に言えば、プロを志向しないクリエイターのことでしょうか。たとえば、野球が好きだとする。ここで、「プロ野球の選手になりたい」と志向すれば、1000人に999人は“才能”の壁にぶち当たり挫折して苦い人生を歩むことになる。だから、「プロ野球の選手」を目指すのではなくて、ただの「野球好き」でいいじゃないかというのがプチクリ。
ボクもこの番組を見ていた。インディーズ、オタクの二次創作、コスプレ、そしてブログなどなどあるなかで、いまさら「プチクリ」かな、と思った。むしろ時代は「極プチクリ」ではないだろうか。
反復(フィードバック)速度と動物化
「なぜ動物化とヘタレ化はメビウスの輪なのか? <ヘタレ化するポストモダン その2>」*1で、動物化とテクノロジーの反復(フィードバック)速度の関係を示した。たとえば、コンビニによって便利になり、僕たちは24時間ほしいものがすみやかに手にはいるようになった。さらに反復速度が向上し、家にいながらにほしいものが手に入ればどうだろうか。いま、「カールチーズ味」がほしいと思うと、数分で届くのである。これに近いものはすでにデリバリーシステムとしてあるし、商品が情報ならばすでにネットで実現されている。その配達が、コンビニ並の品揃えが、低価格で行われると、僕たちはさらに「動物化」していくだろう。
テクノロジーの向上を、不自由を低減するための反復(フィードバック)速度と考えると、消費における満足は、以下のように向上してきていると考えることができるだろう。
機能製品(家電製品など)→多様化(娯楽全般、映画、テレビなど)→高付加価値品(ブランド品など)→インタラクティブ製品(ゲームなど)
貧困の時代から、大量生産の時代によって、ものが安価に手に入るようになった。まず普及したのが、機能性を向上させる、すなわち便利な商品である。車は移動を素早くし、家電製品は生活を豊かにした。そしてあまった時間、あまったお金を使うための娯楽商品である。
さらには情報社会において、ゲームなど、インテリゼンスを持った、インタラクティブな製品が供給されて満足を満たしている。この先には究極的に、ヴァーチャルリアリティや、遺伝子工学が駆使され、すべての欲求が満たされ、「動物」として満足するマトリクス的な世界が達成されるかもしれない。
しかしそれほど単純ではない。消費だけでは、満足することはできない。たとえば、オタクは、消費だけでなく、自らアニメなどの二次創作を行うことに楽しみを見いだしている。ただ選択し消費するよりも、自分で作る出す方が労力がかかるにも関わらず、その労力を楽しむのである。
ここにある、困難(不自由)を求める行為はなんあるか。それは、動物的な欲求ではない、高次な満足としての欲望である。欲望とは、自己承認である。たとえば、芸術は、貧困であっても、創作される。それは将来の成功のためということでは、説明できない強い欲求である。それは、他にどこにもない、自分だけのものということであり、自分の存在証明のような欲求である。そこには不自由をあえて作るという意味でのクリエイティビティ(創造性)がある。
芸術、開発というほどの高いクリエイティビティーの困難、労力でなく、より低い困難によって楽しむのが、「プチクリ」だろう。それは現状においても、様々な分野で行われている。音楽ではアマチュアバンド、インディーズなどから、趣味としてのサブカル、そしてオタクの二次創作、あるいはコスプレを楽しむなど。
さらに「プチクリ」を加速させているのが、ネットである。ネットという公開の場の存在が、「まなざしの快楽」として、欲望を想起している。ブログも、評論家もどき、知識人もどきな「プチクリ」として機能しているだろう。
高速化する「プチクリ」
現代はさらには、労力がかからず、困難性が低いクリエイトが楽しまれている。ボクはかつて女子高生の携帯であり、そのストラップが彼女の個性の表現の場になっていると言った。商品が多様化する中で、なにを選択するかということが、「より小さなクリエイティブ」として働ている。それが、ショッピングの楽しさであり、ブランド品へはまることも同じような欲望だろう。
さらには、アイドルヲタなども同様であり、だれのファンであり、どの程度のめり込んでいるか、など、マニア的な選択、収集も、「小さなクリエイティブ」、「極プチクリ」とでも呼ぶべきものだろう。
そして現代の特徴は、情報化によって、反復(フィードバック)速度が増すことによって、流行り廃りが加速しているのである。ボクはそれを「マイフェイバリットからマイブームへ」といった。好きであるということがマイフェイバリットという一生に一度であったものが、マイブームという短期的なものへ変化しているのである。このような流行りの加速が、クリエイティブから「プチクリ」へ、そして「極プチクリ」へと、より離脱可能な傾向へ向かっていると言えるかもしれない。
さらにボクはこのような「極プチクリ」として、ケータイ、2ちゃんねるなどのネットコミュニケーションをあげることができると考えている。コミュニケーションはコミュニケーションそのものに不自由性が含まれているのである。その中で、ネットコミュニケーションは、非対面性、匿名性などの「軽さ」と、テクノロジーとしての反復(フィードバック)速度の向上によって、ゲーム化しているのである。
ケータイや2ちゃんねるが、コミュニケーションそのものを楽しむために行われるというのは、そのような意味である。そしてこのようなネットコミュニケーションでは、レス自体に小さなクリエイティブが求められる。たとえば2ちゃんねるの会話がアイロニカルであるのは、衝突しやすいネットコミュニケーションを、あえてズラすことで回避する方法であるとともに、ベタな返しを転倒するユーモアーでもある。そこには、「小さなクリエイティブ」が求められる「遊び」なのである。
ネットコミュニケーションにおいて、究極的なものが「祭り」である。高速化したレスのやり取りでによって、場全体として、盛り上がりという刺激を生む。そこでももはや、「極プチクリ」から、動物的な反復の生理的な快楽と、全体が内部として作動する帰属という承認の快楽とが入り交じった快楽へ繋がっているだろう。
「極プチクリ」なヘタレ化
現代のテクノロジーの発達が反復(フィードバック)速度の加速させ、消費は自己承認的な満足から、生理的な快楽によって満足する傾向、「動物化」へと向かっている。それは、クリエイティブな自己承認への困難に向かうだけの飢餓感であり、情熱がもてない傾向が広がっている。このような困難への情熱の欠如として、その典型として、引きこもり、ニートなどが上げられることができるだろう。
その反面、時として、2ちゃんねるなどで見られるような、「動物化」との混合した「極プチクリ」の反復と形で、「ロマン主義的」あるい「没入」と呼ばれるような強迫的な満足がめざされている。それが「ヘタレ化」だろう。