なぜ「コピラ族」なのか?
コピラ族
ブロガーで、対象をカデゴライズし、名付け、流行らそうとするの人たちがいる。これは、2ちゃんの「祭り」と同じで反響を楽しみ、繋がりを確認する行為だろう。こういう人たちを「ブログコピーライター族」、略して「コピラ族」と名付けた。そうです。ボクも「コピラ族」です。ほどんど流通しなかった比較的新しいものを、在庫棚卸してみましょう。
無垢への欲望
欲望とは無垢(フロンティア)への欲望である。無垢への欲望とは、無垢を征服したい暴力であり、さらには競争である。
なぜ過剰に無垢(フロンティア)を欲望するのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050523
「上から二冊目の本」には死体が埋まっている
「上から二冊目の本」には死体が埋まっているのである。女子高生には死体が埋まっているのであり、ロリータには死体が埋まっている。そしてレイザーラモン住谷には死体が埋まっているのであり、ディズニーランドには大量の死体が埋まっている。これら「生き生きした」幻想を作動しているのは、ベタ化した社会の閉塞から欠乏する無垢へのボクたちの過剰な欲望であり、あぼーんする快楽である。
なぜ「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿るのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050524
ヘタレ化
「動物化」によって人は反射的な「幸せ」に入っていくが、それだけでは充足できずに、ダルくなり、「強迫的」に欲望を加速させるのが、「ヘタレ化」というわけだ。
なぜ動物化とヘタレ化はメビウスの輪なのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051031
極プチクリ
現代の特徴は、情報化によって、反復(フィードバック)速度が増すことによって、流行り廃りが加速しているのである。ボクはそれを「マイフェイバリットからマイブームへ」といった。好きであるということがマイフェイバリットという一生に一度であったものが、マイブームという短期的なものへ変化しているのである。このような流行りの加速が、クリエイティブから「プチクリ」へ、そして「極プチクリ」へと、より離脱可能な傾向へ向かっていると言えるかもしれない。
[議論]なぜいま「極プチクリ」がおもしろいのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051105
思春期セカイ系
2ちゃんねる哲学板にいると、自分の不安を世界の不完全さと短絡させ、「世界が間違ってるから、悪いから、正しいボクは苦しくなる」的な言説の人が多々来る。思春期という、経験よりも知識(理想)が多いアンバランスな時期に、「なんで大人はこんなこと簡単なことがわからないのだ!」的なある種の全能感をともなってあらわれやすい。特に、引きこもり系の人に多いように思う。ボクはこれを「思春期セカイ系」と呼んでいる。
「なぜ「思春期セカイ系」なのか。」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050727
ハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち)
かつてのボクは、このような状態を、語呂良く「ハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち)」と呼んだ。本来自由な選択で、各人個性的であるはずが、マクロ的には没個性化に向かう。そして「寛容」という距離によって閉鎖された「個室」の中で、消費という自分の趣向による登録によって、自己を維持し続ける。それはまるで心が一つづつの穴を形成する蜂の巣状(ハニカム)のような状態になる。これは物理的な「個室」を意味するのではなく、引きこもりという限定されたものではなく、現代人の全般的な傾向だろう。そしてこのようなハニカムハーツが、「孤独」と閉塞の中で、自己を保つために消費すべき、「生き生きしたもの」を求めて、さまようのである。
心たちはなぜ蜂の巣状化するのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050511
「コイズミ・オブ・ジョイトイ」
「郵政民営化」を問うんだ!、わかりやすい改革派と改革反対派という単純な2項対立、あるいは刺客?というような「ベタ」な展開さえも、みな「あえてベタ」であることはわかっているという、メタレベルのメッセージ=コンテクストに共有を見いだしています。僕たちはまんまとはまっているというアイロニカルなまなざしも持っているでしょう。しかしインリンは応援しないわけにはいかないのと同様に、「小泉首相を賛成しないわけにはいかない」のである。そこにあるのは、小泉首相のマジな悲壮感への共鳴であり、すでに巻揉まれているのです。
なぜ「コイズミ・オブ・ジョイトイ」なのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050817
「中心なき世論」
この傾向は、2ちゃんねるだけのものではない。ボクはこれはネットの影響であると考えているが、社会的な情報能力の発達は、社会的なポピュリズムが「直接民主制ような審判」によって、コンテクストを生んでいる。小泉政権は、この「中心なき世論」へ訴えかけたのであり、それ故にパフォーマンス、劇場型といわれるのである。なぜライブドア、フジテレビ問題で、ホリエモンらは盛んにTVに露出したのか。そしていまの阪神問題では、村上氏らが懸命に「中心なき世論」を味方につけるべき懸命であるのか。
「のまネコ」インスパイヤ問題はなぜ「戦争」なのか その6 2ちゃんねるの社会的な判断機能の可能性 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051015
自虐的プライド
ただ引きこもり系の人って、「ぼくはダメな」みたいな自虐的な発言が多いわりにそんなの普通だよ、みんなそうだよ、というような言葉を嫌いますね。卑下しながら、他者と差異化して、優越を示唆しているようなプライド、これを「自虐的なプライド」と呼ぼう。
[議論]続 なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051107
引きこもりホリック(中毒)
引きこもりは、自分を保証してくれる一つの居場所として機能している面があるのではないだろうか。特に最近は、「引きこもり」という名称が一般化し、たまたま引きこもったから「引きこもり」なわけではなく、「引きこもり」になるために引きこもるということが起こっているだろう。
そこには、「引きこもり」としてのコンテクストがある。彼らなりの思想があり、ブライドがある。自分がこれは引きこもりであることに満足しているということではない。ホリック(中毒)であり、やめたくてもやめられない依存関係にあるということだ。
なぜ引きこもりはプライドが高いのか。 その2 働かないのか、働けないのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051021
動物系引きこもりと居場所系引きこもり
すなわち、働けないのか、働かないのか、ということである。引きこもりとは分類してみよう。。
居場所系引きこもり・・・人間的、反社会的、引きこもり。ニート、フリーター系。引きこもりであることに自覚的、引きこもりのために引きこもりになる。引きこもりに便乗している面あり。バイトなどの経験があるが、めんどくさくて(居場所見見いだせずに)やめる。社会的な自立を絶えず考え、ときに今の社会に不平不満をもつ。
動物系引きこもり・・・動物的、脱社会的、引きこもり気が付くと引きこもっていて、なにをどうすればよいかわからず、ただ享楽的にネット、ゲームに没入し、ときに自分でも抑えられず、暴力的になる。
なぜ引きこもりはプライドが高いのか。 その2 働かないのか、働けないのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051021
ジェットコースター化する社会
ジェットコースターという乗り物の意味は、まさに社会が安心化していることである。安心して暮らせるように社会から排除した恐怖を、自ら作り出し、生の緊張感を味わうのである。それは本当の恐怖ではない。それは管理された恐怖である。安心故に、不安を求める。安心した社会を求める中で、逆説的に不安を作り出さなければならない、ということ。すなわちこのバランスの上に人が立っていることを表している。
なぜジェットコースターに乗るのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050508
速度の快楽
たとえばこのような「速度の快楽」はバイク、車を運転する人なら感じたことがあるだろう。速度を上げていくときのスリル、快楽、超越感。これは「フロー体験」の一種ではないだろうか。
それは慣れた速度では退屈であるし、能力を超えた速度では恐怖である。そこに「何らかのチャレンジがある」とは「それに相応しいスキルが本人にあること」であり、すなわちそこに勝算が見いだせる「対象」があり、そこに向かうときに、「フロー体験」の快楽は生じる。
続 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050624
まなざしの快楽とあぼーんする快楽
たとえば、お酒を飲んで気分良くなるというときには、どうだろうか。たしかにお酒を飲むという状況そのものがすでに、「無礼講」という開放感を生み出す。お酒を飲んでいるのだから、許されるだろうという「まなざし」の中にある。「酔っぱらいは存在しない?」しかしそれだけではない。そこには確かに「現実界の他者」への快楽があるだろう。
その極端が、ドラッグによる快楽ではないだろうか。この強烈な「現実界の他者」への快楽は、「まなざし」を吹き飛ばす。如何なる回りの状況に関係なく、快楽を与える。「まなざし」を吹き飛ばすとは、社会性を吹き飛ばすことである。それ故に、ドラックは法律で規制される。これをボクは「あぼーんする快楽」と呼んだ。
なぜドラッグは規制されるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050622
ネットコミュニケーションの4方法
①ROMに徹する・・・・これが一番無難ではある。
②過剰な丁寧スタイル・・・・自己主張を極力さけ、相手を立てて、低姿勢で対応する。
③2ちゃんスタイル・・・・上述のメタレベルを担保しながら、言いたいこという。
④データーベーススタイル・・・・「事実情報」のみをデータベース的に提示する。たとえば、パソコンの技術情報の記述や、最近のニュースの内容を、自分の感想を込めずに、「事実情報」として、提示する。これはいわば、オタク的コミュニケーション方法といえるだろう。オタクとは、ある領域のテクニカルな内容をより細部に向けて、データーベース化して提示してコミュニケーションする。単にその分野に共有の知識があるということで、コミュニケーションが成立し、「まなざし」の共有、すなわち社会的な「儀礼」へ拘束が必要とされにくい。すなわちメタレベルの意味が排除され、コンスタティブな意味のみで、コミュニケーションが成立する。
なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか?(トータル版)http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050630#p1
オタク系コミュニケーション
オタクとは、ある領域のテクニカルな内容をより細部に向けて、データーベース化して、その共有によって、コミュニケーションを行う。すなわち事実の収集と、それを知っている、知っていない、さらには自分は好きか、嫌いかによるコミュニケーションである。この方法の特徴は、他者の「本音」というようなメタの読みは排除される、ということである。
なぜオタク系はモテないのか。 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050703
「ネットコミュニケーションの純化」
「電車男」では、ネットが内部として機能していることがミソです。どこの誰か全くわからない「名無し」のはずが、エルメス以上に、溝が開いているはずの、「名無し」が内部として機能している。このようなネットが内部として作動することは、ネットの一つの特徴です。ボクはこのようなネットの親密性を、「ネットコミュニケーションの純化」と呼びました。たとえば、出会い系などはこのような原理を利用しています。
[議論]電車男はなぜエルメスに恋をしたのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050710
「ブロガーのジレンマ」
ネットは「見られたい人」を捏造しやすいコンテクストである。だから一銭にもならないのにこれほど熱心に書かれる。しかしまた「見られたい人」は主観的なものでしかなく、決して返答がえられない人でもある。ブログには、見られたい人が見ている故に熱心にブログを書くが、決して見られたい人からは返信がこないというジレンマがある。
人気ブロガーは、趣味でやっている以上、ペースを落とすことは可能なはずであるが、それができないずに燃え尽きてしまうのは、ネット上の多くの人々の中に「見られたい人」が潜んでいるように捏造するからである。このような意味で「ブロガーのジレンマ」は人気ブロガーだけのことではないだろう。ブロガーはみな多かれ、少なかれ「見られたい人」を捏造し、「ブロガーのジレンマ」による焦燥感を抱いているだろう。
ブログはなぜ書かれるのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040713
フィーバーする
そしていままで、「フィーバーする」ことを何度か経験した。それはまさにこの記事のような状態である。あるとき、突然アクセス数が急増する。日々の数百アクセスなのが、目が覚めると「津波のように」アクセス数が押し寄せ、一気に数千単位で増えていく。そのアクセス先を調べると、ある人気ブログである。そして多くにおいて、人気ブログは1日で更新されるために、一日、二日で一気に潮は引いていくのである。
なぜブロガーはジレンマを抱き続けるのか?その1 ブロガーのナイーブ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050830
倫理的「開かれ」と処世的「開かれ」
倫理的な「開かれ」とは、内部/外部の境界をなくし、外部に排除された人々を救済するということであるが、空気を読む的、すなわち処世的な「開かれ」は、内部に居続け、外部へ排除されないためのものである。このために、処世的な「開かれ」は、むしろ積極的に外部を作り出す傾向がある。スケープゴードとして外部を作ることによって、自分の帰属する内部を作り出すという、「閉じられ」をめざす。
「のまネコ」インスパイヤ問題はなぜ「戦争」なのか その2 安心して閉じられる場所 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050924
「転倒/反転の構造」
■転倒・・・「偶有性から単独性への転倒では神性が捏造される」、象徴界(言語、社会)という内部を作り出す。内部の帰属として主体がつくられる。内部の価値としての真理が作られる。 形而上学、「デリダも必ず恋をする」
■反転・・・「単独性から偶有性の反転では神性は解体される」、内部が解体され、外部へと浸透する。 主体を解体する。真理を解体する。ポストモダン、「デリダの恋も必ずいつか冷める。」
■カオスの辺縁・・・転倒/反転の往復運動の起点、自己組織化が起こる位置、生命が維持される位置、内部(言語、社会)が維持される位置。主体が維持される位置
なぜ「ネオ自然主義」なのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050822
*1:神話なき神話の時代 名場面集 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040921