続 なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか?
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■社会的コンテクスト VS 個人的コンテクスト
- 考える名無しさん
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もう嫌です。自分の生活は自分の自由にはならない。ぴかぁ〜さんの言うとおり、親に食わせていただいて、親のスネを齧る羞恥に俺はまみれている。自分で食うとするなら、俺はその仕事に束縛される。少ない余暇でさえもはや仕事のために消えていき、自由に生きられない。結局ニートになろうが、マジメな人間になろうが、他人によって縛られるような生活しかありえない。
死にたいとおもっても死ぬのは怖い。何もかも手放す覚悟も、生命を放棄する一連の現実的な手続きも怖い。簡単に一瞬で消えるならまだしも、血を流して体を痛めつけるのが怖い。
ホームレスにもなりたくない。冷房がなくてPCも触れなくて汚い飯くって何も読まず何も聴かず恥だけを垂らしながら、生きるのも嫌だ。生まれてこなきゃ良かった。生まれてきたくなんかなかった。もう嫌だ。
現実に常に支配されて自由にならない人生の窮屈さが絶望的に感じられるのです。例えばDBの「精神と時の部屋」に好きな本と好きな音楽を持ち込んでずっと引きこもっていたいくらいです。
- ぴかぁ〜
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<儀礼による拘束>
たとえば、「考える名無しさん」の感じる他者との空気は、社会的な儀礼です。人は無意識にたえず、他者とコンテクストを共有することによって、安心して、つきあっています。他者がいることを認識しただけで、ボクたちの行為は拘束されるのです。それは相手も同じです。そのような共有のルールがあるから、社会生活は円滑に行われます。一般的に「場の空気を読む」ということです。
たとえば、前から人が来ると、よける。挨拶されると、挨拶しかえす。たとえば、家から出るときには、それなりの格好をするなどなど。これは当たり前のようで、各コミュニティの儀礼としてあります。たとえば、街で人気の人の良いおばちゃんの店で食事をするとき、ボクたちはそのおばちゃんがおばちゃんのキャラであり続けられるように、「場の空気を壊さないように」無意識に行為します。
それに対して、マック、ファミレス、コンビニでは、客が暗かろうが、キモかろうが関係なく、だれでも同じ対応方法をするようにマニュアル化されています。店の中では、おばちゃんなら、あれこれ干渉するでしょうが、他者に迷惑をかけなければ、店側は拘束しません。すなわちこのような社会的な儀礼による拘束を低減するこによって、現代のユーザーに対応しているのです。
<「汚物」という繋がりへの過剰性>
価値が多様化している現代では、過剰なコンテクストの共有は、拘束として感じてしまいます。しかしこれは、他者と関わることが嫌い、ということではないでしょう。宮台はこのような多様化を「島宇宙化」と言いましたが、それぞれの離れ小島で自分のルールで暮らしているから他者のルールに拘束されるのはいやですが、他者とコミュニケーションしたいという思いはあります。というか、逆に強くなっているでしょう。
ここに現れる過剰性をボクは、「汚物」と呼びます。たとえば、ボクが上げるのは、女子高生の蛇の抜け殻のようなルーズソックス、オタクの薄気味悪くデフォルメされたロリ画、おねえさんの使いもしないブロンド品収集などなどの過剰です。その汚物の先に他者を見ているのです。これらは島宇宙の中で、他者と繋がりたいという欲望の結晶ではないでしょうか。そしてその拘束し会わない程度に密接に繋がり会いたいというパラドクスがネット、ケータイの爆発的な普及です。
<コンテクストの二重性>
人は二重性の中に生きています。社会的なコンテクストと個人的なコンテクストです。そして価値の多様性の中で、社会的なコンテクストは静的な拘束に、そして個人的なコンテクストは過剰な欲望の対象になっています。
「考える名無しさん」が苦しいのは、この二重性の中でのまじめすぎる振る舞いからではないでしょうか。個人的なコンテクストへ向かいたいが、その過剰性を、自分の中の社会的なコンテクストが抑止する。
「相手から気味悪がられるのが嫌なのだ」、「過剰性が自分にとって敵意として現れる」、「恥ずかしい存在だと思われるのが嫌なのだ」とというのは、他者からでなく、自分の中の社会的なコンテクスが「薄気味悪い」と叫んでいるのでしょう。
- 考える名無しさん
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>「相手から気味悪がられるのが嫌なのだ」、「過剰性が自分にとって敵意として現れる」、「恥ずかしい存在だと思われるのが嫌なのだ」とというのは、他者からでなく、自分の中の社会的なコンテクスが「薄気味悪い」と叫んでいるのでしょう。
これは非常に納得いきます。というか、問題の核心だとさえ思うのです。あまりに自分が他人から査定されていると意識しすぎなのだとは思います。査定される、そういった視線を感じる、感じてしまう、というのが問題なのだと思うんです。実際に査定されるかどうかはわかりっこないし、そうだとしても堂々としろと皆さん言うと思うのですが。
でも査定されてるように思ってしまうのです。それが、僕は「他者が不在の形骸化した制度」だと思うんです。仰る通り、まさに自分のなかの社会的コンテクストの叫びだと思います。
常にその査定に対して答えていかなくてはならない絶望、そして査定に対して「劣った存在」として認知されることへの恐怖、これらが絶望的に感じられて仕方ないのです。どうしようもないです。
■「空気を読む」ブーム
- ぴかぁ〜
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ボクはブログをもっていて、書いた記事の中で、もっともブックマークされたのが「なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか?」でした。
どうもいま世の中では、「空気を読む」ブームのようです。それは、社会的なコンテクストが崩壊しつつあり、他者が何を考えているのか、ボクは場にとけ込めているか、空気を読めているのか、ということをみなが気にしている。すなわち僕は外部(「劣った存在」)へ排除されていないか、内部にいるだろうか、強迫的に確認する時代なのでしょう。
キタノタケシも「最近は、歌でも「キミがいて、ボクがいて」みたいななんでも繋がりを確認するような作品ばかりだ。」と嘆いていました。
- 考える名無しさん
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空気を読むブームは、社会が多様化するにしたがって、それでも社会が存在する矛盾から全体的普遍的な社会に対して気負いが生まれ始めたように思えます。オタクは酷いファッションで有名ですが、僕自身もファッションや顔の悪さで他人に対して酷い劣等感を持っていますし。2ちゃんねるでもニートはバカにされ、童貞はバカにされます。童貞だのニートだのっていうのは全体的な社会の価値観ですよね?多様化している2ちゃんねるだからこそ、全体的な社会の価値観に対しては皆黙らずえない弱みになってるように思います。
僕自身はもはやそういう価値観で査定されるのがいやです。そもそも査定される場に立つことが間違っているように思うのですが、生きる以上は社会とともにあらねばならないわけで、社会が目的とはならないのに目的として強要されることが苦痛なのです。
哲学を望むなら「もっと勉強しろ」という言葉は厳粛に喜んで受け入れますが、「もっとマジメにいわれたことをしろ」「もっとファッションしろ」「お前の顔は不細工だ」というような価値観に対して晒されることが苦痛でたまらないのです。しかしそこから逃れることもできない。恥を晒しながら、受け入れがたい責任を強要されることは苦痛なんです。
- ぴかぁ〜
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まさに社会的コンテクストと個人的コンテクストの対立ですね。しかしコンテクストは、「複雑性の縮減装置」です。よく、不良が「俺たちの格好でなく、中身で判断してくれ!」と言いますが、「おまえらごときの内面をいちいち学習できるか。人一人の認知能力が、どれだけのものだと思っているんだ!わずかな処理能力を有効に使うために、複雑な世界の情報を懸命に縮減して、生きてるんだよ!」ということでしょう。
だから査定そのものを否定しても、仕方がないでしょう。いやなら、それなりに努力するしかないでしょう。だって、キミもなんらかの「複雑性の縮減」をして、物事を判断して生きているわけです。
■自虐的プライド
- 考える名無しさん
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他人のことを気にかけない存在になりたいです。自分と意をともに出来る人とだけ、余計な価値観に苛まれないで楽しみたいです。
- ぴかぁ〜
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その過剰性自体が、欲望の強さを示しているのでしょう。
- 考える名無しさん
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僕は過剰性そのものを忌避するようにしてると思うのですが。
- ぴかぁ〜
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過剰に過剰性を避けることが過剰性なわけです。人だれもが神経症であるというのが、精神分析のテーゼであり、「考える名無しさん」は、思春期的自意識過剰という正常体なわけでしょう。
オタク、コギャル、2ちゃねらーというキモい人々は、結局、正常なんだろう。これらをキモいという人々も結局、キモいから。最近、金持ちを訪問する番組が多々あるが、すごーい、うらやましいということとともに、なにか、彼らの金持ち趣味の過剰な滑稽さを嗤うアイロニーがあの番組の面白さですね。
ただ引きこもり系の人って、「ぼくはダメな」みたいな自虐的な発言が多いわりにそんなの普通だよ、みんなそうだよ、というような言葉を嫌いますね。卑下しながら、他者と差異化して、優越を示唆しているようなプライド、これを「自虐的なプライド」と呼ぼう。
「自虐的プライド」では、発言は、逆に読まないといけないでしょう。自意識過剰、欲望が強い、とっても人間臭い人々、それが「ヘタレ化」ということですね。
*1:なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050825
*2:本内容は、2ちゃんねる哲学板「生きていくのがつらい8 」スレッド http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1129565808/からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。