続 なぜ「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿るのか? <なぜ「ヘタレ化するポストモダン」なのか? その5>

pikarrr2005-11-13

■無垢飽和の時代=無垢飢餓の時代

考える名無しさん
無垢とはぴかぁ〜の大好きな単語である。

ぴかぁ〜
欲望とは無垢への欲望である。人々は動物的快感だけでは、生きてはいけない。無垢を食べないと、狂ってしまうのだ。社会は無垢が動かしているのだ。現代は大きな無垢が失われ、無垢飢餓の時代だ。キミはどこで日々の無垢を見いだしているのか。勉強、仕事、ゲーム、2ちゃんねる、恋人、復讐・・・

たとえば、最近の「限界の思考」ISBN:490246506X対談と、無垢を絡めると、宮台の時間にはマルクス主義がまだかろうじて、大きな無垢でありえた。すなわち、そこにフロンティア(無垢)があり、乗り出すのだ、という幻想が成り立ち得た。しかしその無垢が様々に語られ、実験され、もはや使い古され消費されたものとなったのである。

では人々は無垢をどこに見いだすのか。各自、小さなプチクリ、極プチクリによって、無垢を生産しなければならないのだ。2ちゃんねるの語りで小さな無垢を見いださなければならない。それはベタではだめだ、さらにメタ位置へと新たな小さな無垢へ見いだそうとする。その空回りの世代が、北田以降のヘタレ世代なのだ。

考える名無しさん
無垢など沢山ある。バイト、就職、スポーツクラブ、旅行、グルメ、交際、新製品・ブランド品購入

ぴかぁ〜
そうですね。無垢飽和の時代でもある。しかし飽和であるから、飢餓である。これが無垢の特徴ですね。なぜなら無垢とは、フロンティアなのだから。

「本当の無垢」は世界に溢れている、というか、世界そのものは、(本当の)無垢でできているのです。イラクへ向かった青年のように、この檻から出ればいいのです。その外は、(本当の)無垢の世界です。絶えず危険が身近にあるジャングルです。

しかしボクたちは、檻の外へはでれません。引きこもりが部屋にこもるように、ボクたちはこのぬくぬくとした社会の外へ出ることができないのです。無垢欠乏に窒息しながらも、外にでる「勇気」はないのである。ぬくぬくとした社会の中で、無垢欠乏に窒息しながら、檻の外にでれずに、「部屋」の中で、無垢を求めて、強迫する。

それは身近な他者へすがるように近接する。たとえば、男にとっての無垢としての女性を対象として、裏返して、こねくり回して、きってはってする。それがオタクの萌え画である。生の女性という(本当の)無垢へ向かうわけでなく、こねくり回された女性という「無垢の幻想」は、原液のように濃縮され気持ち悪いのだ。

考える名無しさん
温暖化は予想を上回り、原油価格も高騰している。フランスでは暴動が起き、ブッシュの支持率も最低になった。否応無く世界は新たな「無垢」の局面へ向かっている。

ぴかぁ〜
「温暖化は予想を上回り、原油価格も高騰している。フランスでは暴動が起き、ブッシュの支持率も最低になった。否応無く世界は新たな「無垢」の局面へ向かっている。」という小さな「無垢の幻想」をエアコンのきいた部屋で、カールのチーズ味を食う日常にボクたちはイライラしている。

マスメディアは小さな無垢供給装置である。社会の日常などだれも見ない。小さな「無垢の幻想」を供給するのだ。それを、2ちゃんねるは雪だるま式に膨らませる装置である。ベタにメタに、メタメタに、と様々に「無垢の幻想」を膨らまし消費するのだ。

「健全」な無垢への消費によって、「人間」として「健全性」が保たれるのだ。

考える名無しさん
そんなことに文句たれるくらいなら、外国で生活してみたらいいだろが。言語、仕事、生活習慣、全てを1からとはいかないが、10くらいから始められるよ。

ぴかぁ〜
最近、プチ留学が流行っているらしい。そこには、イラクへ旅立った青年と同じ間違いが潜んでいる。あるいは、盗んだバイクで走り出す青年、あるいは、手首を切る少女。

イラクにいった青年は無垢を求めて旅立ったのだ。しかし欲望される無垢とは、「無垢の幻想」でしかない。「本当の無垢」など、人はとらえられないし、とらえた瞬間に死んでしまうのだ。そして、そこに彼は「本当の無垢」にであってしまったのだ。

彼らに無垢が欠乏しているのは、わかる。しかし無垢は「健全に」消費しなければならない。そして無垢の健全な消費は無垢を消費する「体力」との関係があるだろう。簡単には、素人がいきなり難解な哲学書を読んでも寝てしまうだろう。入門書などから、小さな無垢から、そして無垢を消費する「体力」を付けていくのだ。それが、「健全な無垢の消費」である。

動物化した人々は、単に刺激的な無垢を求めるために、「体力」が付かないのだ。だから、そのような動物的な無垢に満足できなくなったときに、体力、経験がない人々は、無謀に強迫的に、イラクへ旅発ち、盗んだバイクで走り出してしまうのだろう。それでなくても人は、無垢への強迫性を持っているのだから。「健全」な無垢への消費によって、「人間」として「健全性」が保たれるのだ。

考える名無しさん
「健全」な無垢への消費」「不健全」な無垢への消費」かは人によって違う。イラクへ旅発ち、盗んだバイクで走り出してしまうことがそいつにとって健全ならそれでいい。短絡かどうかも人による。

考える名無しさん
「健全」な無垢への消費」なるものを人々が個々の経験以前に想定、共有してしまうのはとても危険なことだ。「正常な人」の観念が「異常な人」を捏造してしまうケースもあるのだ。

ぴかぁ〜
無垢とはまたコミュニケーションの中でしか生まれないのです。いわば、彼らは、「みんなが見ている」から、イラクへ旅発ち、盗んだバイクで走り出すのです。「みんなが見ている」から、それをダメだというから、無垢を見るのです。そしてそれが「無垢の幻想」です。

そしてこのように「短絡」してしますのは、彼らの「責任」がないからだろう。

考える名無しさん
>「健全」な無垢への消費によって、「人間」として「健全性」が保たれるのだ。」

とりあえず同意だな。ただ飽和状態を仮定するならその場合、健全を破壊することでしか手に入らない無垢も存在するといえるのではないか。そして健全を破壊するには健全で健全に破壊するというのが上策といえる。破壊する主体の健全が破壊されたのでは無垢を健全に楽しむことが出来ないからね。クリエーターと呼べるレベルの連中には、そういった自動化された自己防衛機能があると見える。K1選手を殴り倒すのはK1選手というわけ、たとえ曙であっても。

ぴかぁ〜
「健全」な無垢への消費によって、「人間」として「健全性」が保たれるのだ。」というときに、難しいのは、無謀な無垢の消費が社会を作ってきた。クリエイティブとは、既存の破壊である、ということがあります。

だから「健全」な無垢への消費」を既存の社会的な価値基準での安心、と考えては、いけないのでしょう。「健全」さには「無謀さ」も含まれていなければならない。その意味で、イラク青年を否定することはできない、ことになります。だから、「健全」さとは、無謀さの否定でなく、「責任」の必要性です。

考える名無しさん
ん?自己が帰属する共同体への責任、共同体幻想への責任としか読めないなあ。それはあまりにもつまらないのでは。

考える名無しさん
責任はある程度、結果論でしかない(例えば事業を始める)。そうでなければ新しいことなど始めることはできない。

■倫理的「開かれ」と処世的「開かれ」

ぴかぁ〜
では、ここで少し違う流れを入れましょう。ボクはかつて倫理的「開かれ」と処世的「開かれ」と言いました。

倫理的な「開かれ」とは、内部/外部の境界をなくし、外部に排除された人々を救済するということであるが、空気を読む的、すなわち処世的な「開かれ」は、内部に居続け、外部へ排除されないためのものである。このために、処世的な「開かれ」は、むしろ積極的に外部を作り出す傾向がある。スケープゴードとして外部を作ることによって、自分の帰属する内部を作り出すという、「閉じられ」をめざす。
のまネコインスパイヤ問題はなぜ「戦争」なのか その2 安心して閉じられる場所 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050924
「健全」な無垢への消費によって、「人間」として「健全性」が保たれるのだ。」というときには、この「開かれ」に関係するのです。どのように開くか。すなわちどの程度、「本当の無垢」を招き入れるか。それは、入れすぎると、破綻し、少なすぎると、「処世的な開かれ」として閉塞するのです。そしてこの程度には、「責任」が求められるということです。それは、宮台的に「教養を身につけ、戦略を持つ努力をする」ということでしょう。それがどれだけ、無謀であってもです。

ぴかぁ〜
「責任」とは、短絡せずに、倫理的に「開く」努力です。たとえば、イラクへ旅発ち、盗んだバイクで走り出してしまうことが「健全」とは言えないのは、この無謀さが、処世的「開かれ」ではないのか、ということです。本当の無垢に開かれているのだろうか、ということです。

その意味ではボクは「無垢とはまたコミュニケーションの中でしか生まれないのです。いわば、彼らは、「みんなが見ている」から、イラクへ旅発ち、盗んだバイクで走り出すのです。「みんなが見ている」から、それをダメだというから、無垢を見るのです。そしてそれが「無垢の幻想」です。」と言ったのです。これは、一見、無垢へ開かれているようですが、実は「みんなが見ているから」という、みんなという内部へ向かっているのではないか。

ここでラカンの倫理的テーゼを導入しましょう。「己の欲望に譲歩するな」です。すなわち、みんなが見ているという「無垢の幻想」に騙されず、その外部の「本当の無垢」へ開け、ということです。そして、外部へ開くには、幻想に打ち勝つ「体力」、宮台的な「教養を身につけ、戦略を持つ努力をする」ということが、必要なのです。本当の無謀とは、外部へ開くことなのです。

たとえば、いじめにおいて、より過激なイジメをする無謀さとは、内部の「より過激にいじめるのが凄い」的な価値でしかないのです。いじめられている人、あるいはイジメ自体の価値を疑うという、内部価値にない外部を招き入れることが、本当の無謀なのです。

考える名無しさん
>それは、宮台的に「教養を身につけ、戦略を持つ努力をする」ということでしょう。それがどれだけ、無謀であってもです。

ふむ。改めて言われると確かにそうだな。それを恥と思わないことは日本においては重要かもしれない。そういう人物の代表例としてホリエモン三木谷をあげてもいいのかな。

考える名無しさん
>たとえば、イラクへ旅発ち、盗んだバイクで走り出してしまうことが「健全」とは言えないのは、この無謀さが、処世的「開かれ」ではないのか、ということです。本当の無垢に開かれているのだろうか、ということです。

単純すぎるよ。ある行為が倫理的「開かれ」か処世的「開かれ」かは事後的にしかわからない。イラクへ旅発ち、盗んだバイクで走り出してしまうことを処世的「開かれ」と判断することはたやすい。そういう空気だからね。でもぜんぜん何も言ってないに等しい。

ぴかぁ〜
では、こういいましょう。「処世的な開かれ」からは逃れられない、と。たとえば、先ほどの例で、いじめられている人、あるいはイジメ自体の価値を疑うという「倫理的な開かれ」を目指そうが、反対派の位置に立つことで、目立ちたいという、内部へ向かう「処世的な開かれ」であることからは逃れられない。

だから、「欲望に譲歩しない」努力が、「倫理的な開かれ」へ向かおうとする意志、戦略が必要である、ということです。はたして、彼らにそれがあったのか、ということでしょう。

ぴかぁ〜
ここにデリダの倫理のテーゼ脱構築が正義である」をつなげることは容易でしょう。しかしあまりに開きつづけることに重きを置くとひとはその強度に耐えられないでしょう。だから「健全な無垢への欲望」という程度を入れたいのです。自分なりに開く努力をして調整する、ということです。

考える名無しさん
あたりまえだろ。デリダだって無制限な歓待が不可能なのは百も承知。でもやっぱ「判断保留しないラカンに異議をとなえ「判断保留しまくるデリダのほうがぜんぜん正しい。

ぴかぁ〜
ラカンデリダの倫理は、同じことを言っています。スピヴァグも言っているように、デリダの多くはラカンに近いのです。ボクが思うに、そこにある違いは、デリダの強迫的厳しさに対して、ラカンの人間の不可能性をしるという「医者」の立場来る「優しさ」ではないでしょうか。

ボクが、「健全」な無垢への消費によって、「人間」として「健全性」が保たれる。」というときには、現代の疲れたヘタレたちのために、さらに優しさがあります。ボクたちなりの開き方でいいじゃないか。でも開いていこうぜ。ということです。

「上手く無垢を欲望しよう」でなく、「とにかく無垢を欲望するしよう」

ぴかぁ〜
ここまで示した中で、「健全」な無垢への消費によって、「人間」として「健全性」が保たれる。」について、二つの論点がありました。

「健全性」とは、人は、「処世的な開かれ」から逃れられない故に、ラカンデリダ的な「倫理的な開かれ」へトライし続ける努力ということになる。

しかしまた異なるところもあります。それは、現代では、処世的であろうが、倫理的であろうが、「開かれ」自体が、困難になっていること、欲望自体が消失していることも問題ししているということ。これが動物化/ヘタレ化の対比になる。

②欲求によって反射的に動く、充足するのでなく、欲望しよう。豊かさと安心の中で、与えられるだけの脱社会的にならずに、自分に見合った無垢を見いだし、欲望しようということ。

ここに宮台と北田、東世代の問題意識の差があるでしょう。それが「限界の思考」のテーマでもありました。宮台は①を問題にして、北田は②を問題にする。北田は、もはや問題は②なのですよと、いっています。

動物化では、「上手く無垢を欲望する」のでなく、「無垢を欲望する」ことができなくなっている。ヘタレ化とは、①的には甘くても、②的には動物に対抗し頑張っている人たちだ、ということです。

考える名無しさん
それってそんなにたいそうな問題なんだろうか。②的状況にある階層がいるのは認める。しかし数年で滅び行く(もしくは発展解消する)階層なのではないだろうか。日本経済・文化の老熟化によって存在の条件自体が切り崩されるから。「もはや問題は②なのですよ」ではなく「過渡期の問題として②の問題も一応考えよう」程度のことじゃないか。

ぴかぁ〜
ボクたちの目先になる問題はそれです。引きこもりであろうが、なかろうが、脱社会的な傾向、動物化の傾向はある。東によると、これはテクノロジーに支えられてるので、将来的に進むだろう、ということです。ボクもそれには同意します。欲望しなくても、満たされてしまう方向にテクノロジーは向かうだろう。

そうでなくても、目の前にあるこの閉塞感に向かう姿勢からまず一歩目を出すことが、「健全」な無垢への消費」によって、「人間」として「健全性」が保たれる。」ということなのです。

ボクが「ヘタレ」と開き直るのは、動物化するよりも、よい。まず「ヘタレ」ようそれが重要だろう、ということ。宮台のいうようにそれが「ヘタレ」であっても。とにかくヘタレることで、僕らなりの「健全」な無垢への消費」と行う。それが2ちゃんねる「祭り」であって、それでまず健全さへ向かうなら、そこからはじめればよい、ということ。

「健全」な無垢への消費」によって、「人間」として「健全性」が保たれる。」というように、まず動物から人間へ。宮台のいうようにエリートになるには、その先の問題ということです。

考える名無しさん
動物→フリークス的エリート、というルートを拒否して動物→ヘタレ→人間→エリートの道を歩めということかな。それには賛成だけど、なぜそこで「祭り」が出てくるかわからない。君の言う「祭り」ってのは小泉マンセーのまネコぱくんな!嫌韓!みたいなもんだろう?

ぴかぁ〜
現代は、無垢の欠乏から、エリートを目指す以前に、人間であり続けることに困難がある、ということです。

さらに「動物→ヘタレ→人間→エリート」でなく、「動物→ヘタレ・・・人間」で良いとも思っている。「祭り」というのは、動物→ヘタレの過程なのです。宮台はヘタレとバカにするが、ボクはここにも一つの価値を見いだすのです。

ネット世代ではとくに、もはやエリートに意味はない。多様化と高速化では、エリート的な知識では追いつかないのではないでしょうか。主役はヘタレになる。今回ののまネコ問題もその実験となるのではないかな。そこに一番興味があります。この辺りの考えは、北田に近いです。

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*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板「ヘタレ化するポストモダン 4」スレッド http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1131633641/からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。

*2:なぜ「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿るのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050524

*3:なぜ過剰に無垢(フロンティア)を欲望するのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050523