「無垢」はなぜ「汚物」なのか <無垢への欲望 その1>

pikarrr2005-11-23

なぜ「無垢」を求めるのか


まずはじめに人は根本的に欠けた存在なので、完全な充足を求めているということです。そのために「無垢」を欲望します。なぜ「無垢」を求めるのかというと、それが処女地(フロンティア)だからです。そこに一番に乗り込む、征服することによって、私が1番、すなわと他者とは違う、唯一な存在として承認され、充足されます。たとえば、だれも登ったことがない山を一番に登ることによって、彼には、初登頂、初征服した唯一な存在としての名誉が与えられ、充足が得られます。

たとえば、大航海時代には、みなが未開地を求めて世界へ旅立ちました。それによって、アメリカ大陸は発見され、発見者に名誉が与えられます。しかしここでおかしいのが、原住民がいたのになぜ発見なのか。処女地(フロンティア)なのか。それは「西洋というコミュニティ」の価値として、アメリカ大陸はフロンティアであり、発見であったからです。アメリカ大陸発見者の名誉など、原住人にしてみれば、なにを言ってるの?ということになります。




無垢の幻想


だれも登ったことがない山を一番に登ることの価値も、それが価値あることだと、承認するコミュニティがあるからです。それが無垢であるという価値は、あるコミュニティの承認によって得られますから、だからボクはこれを「無垢の幻想」と呼んでいます。

「無垢の幻想」として、物理的な処女地をあげましたが、コミュニティ内にそれを行うことに価値があるというときすべてに「無垢の幻想」が生まれます。たとえばある算数の問題が解けることにしろ、新品の靴を買うことにしろ、誰かとコミュニケーションするにしろ、属するコミュニティが、そこに価値を認めるときに、小さな「無垢の幻想」が生まれ、それをすることで、小さな充足をえるのです。小さなところでは、「上から二冊目の本」を買うことから、大きなところでは、オリンピックで優勝するなど、より多くの人が欲望することほど、大きな「無垢」があり、それを達成することで大きな充足が得られます。しかしどのような無垢を征服しても、人が完全に充足することはないので、人は一生欲望し続けます。




若者はディープを目指す


現代では、大きな無垢がなくなってきています。なにをやってもすでに誰かがやってきたことでしかない。特に社会という「大きなコミュニティ」ではそうです。だから人々は無垢を求めて、コミュニティを細分化させています。たとえば、オタクという「小さなコミュニティ」の中で有名な声優と握手したという価値は、オタク以外の人々には価値がありません。しかしオタクたちにはものすごく大きな名誉です。このように「無垢」への欲望は、小さなコミュニティ内で、小さいながらも、誰もやっていない無垢へ、よりディープへ向かっています。

特に若いときは過剰に自分の価値を求めますが、現代で、若い人が、家庭や学校などで言われる社会的な価値に興味がもてないのは、社会という「大きなコミュニティ」には無垢が見いだせないからです。だから無垢を求めて、オタク、ネット、ファッションなどのより趣味的な「小さなコミュニティ」に向かいます。




社会的なタブーへの近接に「汚物」は現れる


そしてより細分化された価値の誰も到達していないというディープな方向へ向かう時に、社会的に禁止され、タブー視されているところへ向かうのは、当然ともいえます。たとえば「女たちはなぜパンツを見せるのか」*1の中で言いたかったのも、このようなことです。若い女性たちが、無垢を求めてディープへ向かうとき、社会的に「女性が下着であり、肌を露出することはいけない」というタブーへ近接するのです。そしてそれを、そのコミュニティの外からみると、奇妙で、病的に写ってしまうのです。

古くは不良少年が犯罪をするのも、あるいはかつてロック少年が不良と呼ばれたのも、女子高生がスカートを短くするのも、オタクが幼児をロリコンとして性の対象とするのも、社会的なタブーへの近接であり、過剰な「無垢」への欲望です。このようなことをボクは「汚物性」と呼んでいます。

「無垢の汚物性」を現代の若者で説明しましたが、どの時代も無垢とは、社会的な価値の境界、タブーなところから現れるものであり、「汚物」であるのではないでしょうか。革新的なことは往々にして、常識を逸脱し、過剰であり、醜悪で、非難されるところから始まる。そしてボクたちはそのようなものに眉をひそめながらも、なぜか引きつけられてしまう。このような「無垢の汚物性」は、コミュニティの内と外という境界を脱構築し、コミュニティを新陳代謝させる傾向でもあるのです。
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