なぜ「カオスの辺縁」なのか? <無垢への欲望 その5>

pikarrr2005-11-27

「続なぜ「ネオ自然主義なのか <無垢への欲望 その4> http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051126を受けての議論です。

■理想主義的

長谷部悠作
相変わらず見事な考察に舌を巻きました。ここまでくると僕のような頭の悪い人間に正確な理解と応答は出来ないと思いますが、もとよりそれは認知限界だと割り切って考えたことを(笑)

僕が気になるのは主体の……つまり仰られるカオスの辺縁だと思うのですが……これがどこに設定されるのかということになります。例えば「内」という社会…友人関係や2ちゃんねるの祭りなど…には規範がありルールがあるわけで、そのコンテクストを共有することにより、内に属することになりますよね。その内全体がカオスの辺縁なのか。それとも主体はやはり個人という規格の中にしかありえないのか。僕は内への浸透へ危機感を抱いていますから、内が肥大していくヘタレたちを主体喪失状態と見ています。

僕個人は、あくまで個人という主体を第一線とし、その自由枠の中でその場その場でのコミットを戦略的に行わなくてはならないと考えます。これが理想主義的だと思うんです。その戦略的な距離、しかし快楽と不快のために「自己の否定」を許容できる信頼をどこに置くのか。結局は信頼の問題となるので、それを信頼する限りは内部に属することと大して変わりないといえば、事実そうなんです。僕が考えているのは、内部の暴走を客観視し危惧できる立場にいても、「自己否定」は可能なのではないかということです。表向きにニヒリズムな態度を取りながらも、何かに心から感動するのは可能なのではないか。

ですからヘタレに対して僕は、「社会のどうしようもない事実として」の中立的立場としての観察よりも「自己創造せよ、社会と戦略的に距離をとれ」と呼びかけたいんです。果たしてカオスの辺縁が他者に頼らなくては本当に破綻するのか?無意識のレベルではそうなのは理解できます。他者の言説にのみ自己は現れるというラカンの俗的な理解が正しいか否かよくわからないんですが、ただそれは納得がいきます。しかしそれはあくまで無意識の層で、その無意識を経験(記憶)と重ねればある程度独創は可能なのではないか。その独創こそ過去と未来を繋ぐ時間的な自己を、全体的というより無限的な自己を発明できるんじゃないか、と思います。

ですから主体維持の問題と自己否定という快楽の問題を常に重ね合わせること。この一致を常に戦略的に求めること、これが僕の目標となってます。

問題は、無意識の層に無自覚に満足する大衆なのではないか。ですから無意識に、ヘタレがテクノロジーに反応して生まれるのは理解できます。しかし個人の自由な思考も、無意識の構造に絡めとられるとは信じたくないところがあります。少なくとも神の名を求めずとも、人は生きていけるのではないか。そして、それはもう少しは賢い生き方なのではないか、と思うのです。

記憶容量、認知限界に関しては、私達が真実を知りえないという観点から説明可能ではないかと思います。社会に依存しなければ社会にある単純化を無理矢理行わなくてもいいわけですし。

生半可な理解での長文すみません。ネット社会を単なる繋がりやデータベースとしてではなく、より「日記」というシステムを強化したBLOGの制度、これにより社会に対する自己を確認していくというのは面白いと思ってます。今のところ、下らない日記で終わってるのが事実だと思いますが。

■「自由意志」の位置

pikarrr
かなり趣味的な文章になっていましたが、読んで、コメントいただきありがとうございます。

>僕が気になるのは主体の……つまり仰られるカオスの辺縁だと思うのですが……これがどこに設定されるのかということになります。

もう少し、カオスの辺縁の話を続けると、たとえばこの世界になぜ秩序があるのか、と言う疑問があります。この精巧な宇宙であり、生命などなどのシステムはどこから生まれたのか。これには今のところ二つの答えしかないと思います。一つは神(超越的な意志)と、もう一つは自己組織化です。自己組織化とは、すべてが偶然の世界の中である確率で生まれる秩序です。そこにはどのような意志も必要なく、ただ生まれてくるのです。このような現象はすでに科学的に確かめられています。すなわちアダムスミスの「神の見えざる手」です。

ボクがいったカオスの辺縁は、混沌と秩序のバランスを保つことによって、自己組織化(簡単に言えば成長)を生むシステムなのです。すなわちこの世界の成長する秩序、生命、進化、主体、社会、宇宙などなどすべてが、カオスの辺縁であり、これらが階層的に、そして複雑に絡み合い作動している。たとえば、海の作動を考えると、海流など地球規模の秩序で作動をしていますが、微視的には一つの波の発生にも秩序があるというようなイメージでしょうか。

ボクも特別、理系的な複雑系が得意なわけではないので、この当たりは、この世界のシステムは混沌と秩序のバランスで成り立っている、という程度のことと考えてください。

pikarrr
次が本題だと思うのですが、長谷部悠作さんが考えているのは、「個体性」あるいは個体としての「自由意志」をどのように確保されるのかという問題ではないでしょうか。

>ヘタレに対して僕は、「社会のどうしようもない事実として」の中立的立場としての観察よりも「自己創造せよ、社会と戦略的に距離をとれ」と呼びかけたいんです。果たしてカオスの辺縁が他者に頼らなくては本当に破綻するのか?無意識のレベルではそうなのは理解できます。他者の言説にのみ自己は現れるというラカンの俗的な理解が正しいか否かよくわからないんですが、ただそれは納得がいきます。しかしそれはあくまで無意識の層で、その無意識を経験(記憶)と重ねればある程度独創は可能なのではないか。その独創こそ過去と未来を繋ぐ時間的な自己を、全体的というより無限的な自己を発明できるんじゃないか、と思います。

長谷部悠作さんの理想主義は、「限界の思考」で示された宮台の「戦略的アイロニズムに似ています。宮台の「戦略的アイロニズムは、まずたとえば超越的なもの(サイファ)に感染します。しかしそこでヘタレずに、歴史主義的な教養を身につけることによって、その超越的なものを相対化しつづけ、立ち位置を戦略的に見いだすという「エリート」のみが可能な「エリート主義」です。

長谷部悠作さんの理想主義では、超越的なものが、バタイユ「信頼」ということになるのでしょうか。ここで、ヘタレイズムになるか、エリート主義になるかは、超越的なものを相対化(否定)しつづける方策が問題になります。この辺りもう少し説明してもらえればと思います。

次にラカンにおける「自由意志」の位置の問題です。ラカン象徴界は、簡単には言語のインストールですから、かなり根元的です。言語を排除すると、言葉が出ないということでなく、いわば(脳?が)フォーマットされていないことですから、本当に無垢で精神病的になるのではないでしょうか。

では、ラカンにおいて、「個人性」「自由意志」はどのように確保されるのか。ボクの考えでは二つの意味で「個人性」は確保されると思います。ます象徴界を社会性と考えると、その人の経験によって、それぞれの社会性があると思います。まったく同じ社会性は存在しない、ということで、「個人性」が現れます。

もう一つは、主体の「自由意志」象徴界ではなく、現実界に存在すると思います。個人がなにを考え、するのかは、象徴界(社会性)を通して行われるとしても、その根底は、欲動として現実界に存在します。簡単にいえば、「なぜ〜をしよう」と思ったかは、自分でもわかりませんし、必ずしも自分でコントロールできるものではないが、そこに自由意志はあるということです。

さらに、ラカンの倫理「己の欲望に譲歩するな」は、「社会的(象徴界)にやらされるのではなく、本当に自分が望むこと(現実界=自由意志)をしろ!」です。社会的なものを相対化し続けると言う意味で、宮台的のエリート主義に近くもあります。

「ネオ形而上学的思考」を再度、以下に示します。

ポストモダン的なもの」の本質とは、、「思想間の闘争」というよりも、「主体と環境との闘争」である。 環境とは、テクノロジーの発達による情報化による、複雑化である。
ポストモダン的なもの」によって、形而上学的自己同一性などの主体の秩序が困難になりつつある。
・いますべきことは、むしろ、形而上学的なもの」の救済である。「本当の無垢」を求めた、神への想い、芸術への想い、イデオロギーへの想い、彼女への思い、家族への思いを、疑い、ズラす必要などない。「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿る」

ボクがいう「ネオ形而上学的な「健全な無垢を欲望せよ!」とは、このようなラカン的な意味もありますが、宮台的ほどストイックではなく、現代の相対主義化された社会では、象徴界的な「無垢の幻想」を欲望するのも困難であり、「信頼」できるなんかを見つける(ヘタレる)ことからはじめよう程度の意味もあります。たとえば、ほんとに好きだと言える人を見つけることからはじめる、ようなことです。

■自己を絶えず問い直すこと。

長谷部悠作
信頼はバタイユとかではないですね。分析哲学的といいますか、デイヴィドソンとか齧ってたときに「真理条件意味論」で真理がまず最初になければコミュニケーションがありえないということを考えていたからです。バタイユは確か信頼ではなく幸運とか言ってますです。

カオスの辺縁はぼんやりわかりました。結局混沌的な世界から自然と秩序が生まれる…エントロピーの減退…みたいな感じでしょうか。そうなると人間の主体(言語の集合)もそうなるんでしょうか?それとも人間と言う混沌的な存在が、何らかの宗教に帰依するように集まり内部を作るとき、カオスの辺縁となるんでしょうか?

僕は宮台に共感してるところがありますね。ちゃんと読む前は嫌いだったのに(笑)僕自身が2ちゃんねらの表向きの正義と実体の誤差がたまらなく嫌いだったので、これから離れるにはどうすべきなのかずっと考えてたら自然こうなったという感じです。

僕の超越的なものに対する戦略についてですが。まずそれこそ言語という共通解に縛られていることを自覚し、その上で観念的な自己を絶えず問いながら創設し、内部に浸透している自己を発見したらよくよく問い直すこと。簡単に言えばナルシストになろう!と言ってる感じがあります。とにかく問い続けて止まらないということでしょう。止まった瞬間、浸透は拡大していくのでしょうし。芸術家には、常に違った趣の作品を模索する人々がたくさんいますが、彼らは自己を持たないわけではなく、止まることで何かと固着して自分を見失うことを恐れているのだと思います。何かを愛するというより、何かによって反応(自己否定)し生まれる新しい自分を愛するという意味合いが強いです。

素朴な愛は執着に思えるし、愛される側からの規定に拠るところで僕は窮屈に思えます。その執着が問題を生まないならいいんじゃないかといえばその通りなので苦悩してしまいます。恋愛を否定するつもりはないのです。相手と居ることが楽しいというのであれば、何かしらの得るものがあってのことですし。とにかく恐ろしいのは自我喪失状態が続き、何かしらの要素に依存することです。恋愛が過熱したからといって大問題は起きないと思いますが……ストーカーとかはその辺り原因ぽい感じですし。

僕の考える自由意志は、仰られる「異なる経験」「異なる原始的欲望」を徹底的に磨き上げ、観念的に醸造していくことです。この過程で、正しく論理的な思考が紡がれていれば暴走には至らないはずだという考えが頭にあります。執着の破棄、自己のためを前提とした論理的思考の回復。この二つをもってファシズムニヒリズムを回避したいと想うのです。

■秩序/混沌(カオス)=象徴界現実界

pikarrr
>信頼はバタイユとかではないですね。分析哲学的といいますか、デイヴィドソンとか齧ってたときに「真理条件意味論」で真理がまず最初になければコミュニケーションがありえないということを考えていたからです。バタイユは確か信頼ではなく幸運とか言ってますです。

長谷部悠作さんの「信頼」デイヴィドソン的なら、それはラカン象徴界的ですね。デイヴィドソンはとてもラカン的です。「コミュニケーションは必ず失敗する」とは、ラカンからボクが借りてきた言葉ですが、言語コミュニケーションが成り立つのは、シニフィアンに対する確実なシニフィエがあるわけではなく、意味の伝達において、象徴界という社会性であり、ある種の信頼関係があるだろうからです。しかしそれが期待でしかないく、確実な意味伝達は不可能です。

>カオスの辺縁はぼんやりわかりました。結局混沌的な世界から自然と秩序が生まれる…エントロピーの減退…みたいな感じでしょうか。そうなると人間の主体(言語の集合)もそうなるんでしょうか?それとも人間と言う混沌的な存在が、何らかの宗教に帰依するように集まり内部を作るとき、カオスの辺縁となるんでしょうか?

この世界はなんら意志がないすべてが偶然のランダム世界です。そこに秩序が現れるのはなぜか。そして世界は単なる秩序の静の世界ではありません。宇宙全体が変化する秩序です。それを説明するのが、自己組織化です。自己組織化現象とは、まるで生き物にように成長する現象です。生命は当然ですが、地球環境、主体、社会、言語、群衆、ブームの発生などなど。 そしてこの自己組織化現象が発生するのが、カオスの辺縁です。混沌(カオス)とは、予測できない不規則性で、いわば外部です。秩序は規則性で、いわば内部です。内部の秩序だけでは、変化はおこりません。ただ静の世界です。そこに外部から予測できない不規則性が進入することによって、外部と内部の境界(カオスの辺縁)で自己組織化がおこります。物質から生命が生まれ、地球環境、主体、社会、ブームなどが作動します。

カオスの辺縁としての主体システムについて、以前ここで検討しました

ラカンの構造のダイナミクス・・・象徴的なものを文化,現実的なものを自然と言い換えれば,文化の秩序はそれをはみ出した自然の秩序に接することで活動し続けている。
主体は原抑圧を経て象徴界を獲得するのだが,象徴界は,それだけ取り出せば,諸項の差異と結合の規則のたんなる集積にすぎず,いわば死せる構造,「アウトマトン(自動機械)」である.象徴界に参入することで設立された主体が作動するのは,象徴界から逃れていくもの=現実的なものとの出会い,「テュケー(偶然性)」の次元があるからである(Lacan 1973=1998).

[お勉強]精神分析的主体のオートポイエーシス 大光寺耕平(2001) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050217

ここで、主体システムを、秩序/混沌(カオス)=象徴界現実界としてしめしました。たとえば主体という内部の境界はどこにあるのか。この考えで行けば、境界はないということになります。現実界象徴界接触部に主体は生まれる、ということです。たとえばこれは社会にもいえます。人間文化/自然(環境)であり、この境界に社会が成長しつづける。では、主体システムと社会システムの位置関係はどうなっているのか。これは物理システムではありません。位相システムですので、様々に重複し、複雑に作動しているとしか、いえないのではないでしょうか。

■透明化する社会

pikarrr
>僕の超越的なものに対する戦略についてですが。まずそれこそ言語という共通解に縛られていることを自覚し、その上で観念的な自己を絶えず問いながら創設し、内部に浸透している自己を発見したらよくよく問い直すこと。簡単に言えばナルシストになろう!と言ってる感じがあります。とにかく問い続けて止まらないということでしょう。止まった瞬間、浸透は拡大していくのでしょうし。芸術家には、常に違った趣の作品を模索する人々がたくさんいますが、彼らは自己を持たないわけではなく、止まることで何かと固着して自分を見失うことを恐れているのだと思います。何かを愛するというより、何かによって反応(自己否定)し生まれる新しい自分を愛するという意味合いが強いです。

>素朴な愛は執着に思えるし、愛される側からの規定に拠るところで僕は窮屈に思えます。その執着が問題を生まないならいいんじゃないかといえばその通りなので苦悩してしまいます。恋愛を否定するつもりはないのです。相手と居ることが楽しいというのであれば、何かしらの得るものがあってのことですし。とにかく恐ろしいのは自我喪失状態が続き、何かしらの要素に依存することです。恋愛が過熱したからといって大問題は起きないと思いますが……ストーカーとかはその辺り原因ぽい感じですし。

「言語という共通解に縛られていることを自覚し、その上で観念的な自己を絶えず問いながら創設し、内部に浸透している自己を発見したらよくよく問い直すこと。」まさにポストモダン的思考、デリダ脱構築ですね。デリダは若い頃?主体としての自分、名としての自分さえもズラしつづけようとしたらしいです。わざと間違った署名をするなどなど。それぐらいこだわったということですが、この辺りは過剰ではないとか思います。

ボクが思うのは、長谷部悠作さんがいうような、「問い直し続けること」脱構築思考というのは、とても能動的なことに見えて、実はもはや受動的なことでしかないのではないか。なぜなら現代において、「問い直し続けること」を止めることなどできるのだろうか、と思うのです。

たとえば、ある女性に恋をする当初は恋しくて仕方がない。しかしこのような想いをどれだけ継続できるだろうか。人の想いは冷めていくものではありますが、現代の情報化ではとくに毎日テレビ雑誌にかわいい子が写り、町中にもタレントをコピーした同じぐらいかわいい子が溢れている。(たとえば未開発な国に行くと女性も洗練されておらずに、やぼったい子ばかりです。日本もかつてはそうだったのでしょうか。)性的なものでも、エロビデオ、風俗でかわいい子が溢れています。現代の情報化社会においては、内部の変化が速いのですから、「問い直し続けること」を怠ることは、むしろ内部から排除されることです。

ボクはこのような「問い直し続けること」「開かれ」と呼び、良い開かれ(本当に外部へ開いていくこと)=「倫理的開かれ」、悪い開かれ(開きながら内部に閉じる)=「処世的開かれ」と呼びました。

倫理的な「開かれ」とは、内部/外部の境界をなくし、外部に排除された人々を救済するということであるが、空気を読む的、すなわち処世的な「開かれ」は、内部に居続け、外部へ排除されないためのものである。このために、処世的な「開かれ」は、むしろ積極的に外部を作り出す傾向がある。スケープゴードとして外部を作ることによって、自分の帰属する内部を作り出すという、「閉じられ」をめざす。
のまネコインスパイヤ問題はなぜ「戦争」なのか その2 安心して閉じられる場所 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050924

その意味で、「現代において、「問い直し続けること」を止めることなどできない」というのは「処世的開かれ」であり、長谷部悠作さんのいうの「言語という共通解に縛られていることを自覚し、その上で観念的な自己を絶えず問いながら創設し、内部に浸透している自己を発見したらよくよく問い直すこと。」が目指すのは、「倫理的な開かれ」だと思います。

宮台の「戦略的、教養的、歴史主義的アイロニー「倫理的な開かれ」戦略です。「処世的開かれ」は強迫的なアイロニーであり、ヘタレだ。真理とは歴史によって作られるということから、徹底的に歴史を学び、いま真理とされているものが、どのような背景によって作られたものか、勉強をしよう!そして、「処世的開かれ」「倫理的な開かれ」の違いを見わけよう。」という「エリート主義」です。

これらを踏まえた上で、「倫理的な開かれ」の困難さを思うのです。現代は、いわばあちこちで、内部/外部が活発に自己組織化し、生まれては消えるダイナミックで、社会が細分化た世界=ポストモダン社会=高度情報化社会=「透明化」した社会で、「内部に浸透している自己を問い直し続けること」だけではだめなのです。これが内部だ、というものが明確でない。「透明化」した社会において、なにをもって、「倫理的な開かれ」であり、「処世的開かれ」とするのか。それを決定可能なのか、という問題があります。

たとえば、宮台が相対化のために、歴史主義へコミットしているなら、ボクは自然主義の誤謬をあえて踏み、宇宙論、進化論という超歴史主義へコミットしているといえるのかもしれません。そのような意味でも、「自己組織化」であり、「カオスの辺縁」への言及なのかもしれません、と気がつきました。

このような視点から、「透明化」し社会を生きるには、二つのポイントが見えてきます。自己組織化では、すべてはランダム(偶然性)からはじまります。すべてたまたまの秩序が生まれるということです。より大局の次元として、人のコントロールの限界がある。特に透明化した現代では、ブームを仕掛けるなどの操作はもはや不可能です。それはたまたま生まれ、そしてそこに飲み込まれるしかない。ここから見えるポイントは、ソクラテス無知の知的なこと、操作の限界をしる、ということです。そして、むしろ過剰なコントロールの欲望は、転倒し、強迫的となり、ファシズム的なものになる。

もう一つ、ボクたちもこの「透明でダイナミックな社会」の一部であるということです。操作は不可能でも、楽しむことはできる。海を作り、波を作り出すことはできないが、サーファーのように波の一部となり、一時的にも乗りこなすことはできるかもしれない。

このような意味で、ヘタレ保守であり、2ちゃんねるの祭りを、良い意味でみると、「開き直ったヘタレサーファー」と見ることができます。彼らは、小泉を信仰し、祭りに没入しているのでしょうか?透明な社会はそう甘くはないでしょう。一つの波に乗れたら、次の波のことも考えておかないと、はじき飛ばされてしまいます。その意味で彼らは、生きることに懸命なヘタレサーファーでもあります。

ん〜なにか「悟りの境地」のようになってきました。楽観的、寛容的、現状肯定的だろうか。ルーマンのシステム論も「結局、現状肯定じゃないか」とツッコミが入る、あるいはネグリ=ハートの「帝国」「結局、帝国、マルチチュードってだれ?」って言われる。漠然とした肯定のようになるのは、複雑系の宿命かもしれませんし、まさに「透明な社会」では決断することが困難になっているのだと思います。

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