なぜ「倫理的な開かれ」は困難なのか? <無垢への欲望 その6>

pikarrr2005-11-28

「倫理的な開かれ」

内部とは

まず内部とはなにか。大きくは社会(象徴界)です。社会とはなにか?デイビットソンの「信頼」ラカン象徴界について、次のように言いました。「言語コミュニケーションが成り立つのは、シニフィアンに対する確実なシニフィエがあるわけではなく、意味の伝達において、象徴界という社会性であり、ある種の信頼関係があるだろうからです。」社会とは、「信頼」関係が成り立つ範囲です。これは言葉が通じるという意味ではなく、「おはようと」挨拶すれば、「おはよう」と答える、電車の中で知らない人に話しかけないなどなど、同様の社会性を身につけているだろうことが「信頼」できることです。このような社会にいるから、ボクたちは様々な危険にあるにもかかわらず、ないことのように安心して暮らせます。


無垢への欲望

しかし内部の意味は、安心だけではありません。内部は、「私とはなにか」という主体を支えているます。

まずはじめに人は根本的に欠けた存在なので、完全な充足を求めているということです。そのために「無垢」を欲望します。なぜ「無垢」を求めるのかというと、それが処女地(フロンティア)だからです。そこに一番に乗り込む、征服することによって、私が1番、すなわと他者とは違う、唯一な存在として承認され、充足されます。・・・それが無垢であるという価値は、あるコミュニティの承認によって得られますから、だからボクはこれを「無垢の幻想」と呼んでいます。・・・「無垢の幻想」として、物理的な処女地をあげましたが、コミュニティ内にそれを行うことに価値があるというときすべてに「無垢の幻想」が生まれます。

「無垢」はなぜ「汚物」なのか <無垢への欲望 その1> http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051123

根元的な内部への帰属は言語のインストール(去勢)です。生まれて、言語をインストールされることによって、主体は作動します。しかしそれだけでは、主体の意味は得られず、主体は自分の意味を求めて、内部の価値(無垢の幻想)を欲望しつづけるのです。

内部に帰属し、「信頼関係」によって価値を共有し、その価値(無垢の幻想)を消費することによって、主体は主体たりえる、唯一の私という実感を持つことができるのです。だから内部への帰属がまったくないところに主体はありませんし、主体とはすでに大きな内部の一部であり、主体とは内部の総体であり、内部から切り離された主体は、何ものでもないのです。


人類学機械

たとえば嫌韓的な考え方では、日本社会にとって、韓国社会(韓国人)は外部です。外部は内部のような「信頼」がもてません。嫌韓的には、彼らは、日本人の常識では予測できないことをする安心できない人々なのです。かつての西洋文明では、植民地化した現地人を外部として排除し、同様の「人間」として扱わずに、野蛮な奴隷としました。

ジョルジョ・アガンベン「開かれ―人間と動物」ISBN:458270249X)の中で、このような内部/外部の境界生成を「人類学機械」という「人間」「産出」する場として表現しました。形而上学(メタフィジカ)は、まさしく動物の自然(ピュシス)を人間の歴史へと止揚し温存させるようなメタに関わっている。(アガンベン)」

(『開かれ』の)重要なキーワードとは、第9章のタイトルとなった「人類学機械」という概念である。・・・端的に云って、本書における「人類学機械」とはこういうことだ。「人間/動物、人間/非人間といった対立項を介した人間」「産出」する「歴史化の原動力」としての「操作の場」。通読してわかるのは、本書の一方の目的とは、この「人類学機械」「操作の場」においての政治の輪郭を素描することである。著者によれば、この政治的操作としての「人類学機械」とは、なによりも人文主義という人類学機械」のことであり、つまりは言語=哲学のことである。

開いた傷口としての宙づりの生 北川裕二 http://ime.st/www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/daily/content/200408260001/index.html

社会(象徴界)という内部に形成において、必ず外部が想定されます。外部を排他することで、内部は形成されるのです。ナチスユダヤ人を迫害したのは、ユダヤ人を外部として積極的に、排他することによって、自分たちを内部の中心として結束を固めました。このような強力な内部(全体主義)の作動によって、内部の人間(一般市民)は無理矢理でなく、積極的に外部を排他するのです。ここではユダヤ人は「人間」の外におかれ、容易に殺害されたのです。

これは、現代のイジメの構造でも同じです。いじめる人はいじめられる人を外部へ排除するスケープゴードとして、自分を中心とする内部を作動させます。これは一つの「信頼」のある社会として機能しますので、回りの人々は積極的にいじめに加わらなくても、いじめの構造を支えます。


倫理的な開かれ

かつての社会では、規範をもち、内部/外部が明確に作動していました。西洋という内部とその外、あるいは貴族の内部とその外、平民という内部と奴隷、規律的社会と外部など。アガンベンのいうように、このような内部/外部を作動させるために、政治的操作としての「人類学機械」(つまりは言語=哲学)は作動していました。

ここでは内部に留まり、内部に「閉じて」いれば、内部に居続けることができました。たとえば、ナチス形而上学的言説が政治的操作によって、アーリア人であるだけで、「内部」にいつづけ、「外部」ユダヤ人を迫害することができました。

脱構築などのポストモダン思考が行ってきたのは、このような「人類学機械」の内部/外部の境界を規定する形而上学の根拠のなさを指摘し、内部を外部へ開いていくことです。これをボクは「倫理的な開かれ」と呼びました。

長谷部悠作さんのいう「言語という共通解に縛られていることを自覚し、その上で観念的な自己を絶えず問いながら創設し、内部に浸透している自己を発見したらよくよく問い直すこと。」といいました。この問い直すとは、内部にいては無理です。内部では内部の論理で否定し得ず、本当に「否定」するためには、外部の視点が必要です。すなわち内部/外部の境界を脱構築しつづけ、外部へ開いていこうという、「倫理的な開かれ」に対応するのではでしょうか。




「倫理的な開かれ」の困難①


デリダは必ず恋をする」

しかしこのような「倫理的な開かれ」には、いくつかの困難があります。ボクはデリダも必ず恋をする」といいました。恋をすることは、形而上学的行為です。なぜその女性を好きになったのか、を問うことができません。そこでは彼女は超越的な存在であり、とにかく好きなのです。そしてこのような恋愛も一つの内部として作動する「無垢の幻想」であり、彼女を好きなことによって、主体としての自分の欠落が満そうとします。

主体はこのような形而上学的な行為によって維持されています。たとえば親子を思う気持ちも、生物学的に問うことができない、内部としても価値です。ボクたちは社会として、親子の絆が尊いと学ぶのです。それは、宗教でも、イデオロギーでも、あるいは趣向であり、好きなこと、ものでも変わらない作動原理です。そしてこのような内部への帰属の総体が「主体」です。

「倫理的な開かれ」は極限では、「恋のようなもの」を疑い、外部へ開くことです。彼女を好きになったのは、実は流行りの格好をしているという社会的流行に魅了されたのではないかと、様々に脱構築することです。これは滑稽であり、強迫症的ではないでしょうか。

さらには、デリダ脱構築は正義である」というときには、正義の決定不可能性を意味します。脱構築し、内部を外部へ開き続ける、あるいは差延としてズラしつずける姿勢こそが「正義」であるということです。立ち止まることは結局、「脱呪術化という呪術化」であり、そこに内部を構築することです。人はこのような「強度」に耐えられるのでしょうか。




「倫理的な開かれ」の困難②


透明な社会

現代のポストモダン社会、情報化社会では、、「社会」という内部が揺らいで、かつてあった社会に共有された礼儀が、共有されなくなっています。価値が多様化して、かつての形而上学的な内部/外部の境界が曖昧になっています。

社会を豊かに、安心にすることによって、人々が社会という大きな内部による安心の支えを必要としなくなっている。そして豊かさが内部/外部の格差を消失させている。情報量の増加は、内部の作動を、大きな形而上学的言説に頼る必要がなくなっている。というような意味で、大きな内部は、解体されているのだと思います。

これはジェネレーションギャップというだけではなく、趣味などによる小さなコミュニティーとして内部が作動し、信頼がなりたたなくなっています。これがポストモダン大きな物語から小さな物語へ」ということです。

さらに内部が分散しているだけでなく、小さな内部が生成、消滅を繰り返すというダイナミックな状態にあります。たとえば、昨日まで流行っていた、当たり前だった言葉や約束事が、流行り廃りを繰り返しているのです。ボードリヤールはこのような内部/外部の境界が不明確な社会では、悪意は「透き通っる」と言いました。このような意味でボクは「透明な社会」と呼びました。


デリダの恋もいつかは冷める」

ボクはこれはポストモダン的思考の「倫理的な開かれ」の成功ではなく、テクノロジーの発展によるものだと考えています。

「倫理的な開かれ」は、形而上学的に内部/外部がある程度明確にされていることが前提とされています。それによって、内部を外部へ開いていくことができます。それに対して「透明な社会」では内部/外部が明確にされていません。いわば、社会システムの中に自己組織的に脱構築が組み込まれているようなものです。

このような中で「倫理的な開かれ」にどのような意味を見いだすのでしょうか。デリダの恋が冷めていく」中で、なにを開いていくのでしょうか。




「倫理的な開かれ」の困難②


ヘタレ化

かつては大きな内部に帰属し、どのような階級であるとか、どのような家柄であるとか、内部の社会的な位置によって、主体の意味が規定されていましたが、このようなダイナミックな「透明な社会」では、主体を支えていた内部が透き通ることによって、主体の意味は散乱して行く傾向にあります。逆に主体を維持する=形而上学的なものが困難になっています。

このような反動として、主体は維持のために、「強迫的」に内部を作動させ、無垢を欲望しようとしています。ボクはこれを「ヘタレ化」と呼びました。そしてヘタレ化の方法として、(ネタを込めて)いくつかをあげました。

現代のヘタレ化法一覧

①ワーカーホーリック法、②消費法、③フロー(陶酔)法、④サブカル・オタク・プリクリ法、⑤過剰つながり(弱者排除)法、⑥超越的他者法、⑦自己破滅(死への接近)法

サルでもできるヘタレ化 <なぜ「ヘタレ化するポストモダンなのか? その12> http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051122#p1

このような「強迫的」に内部を作動させということは、かつてのように内部へ「閉じて」いればと言うものではありません。ただ立ち止まって「閉じている」だけでは、帰属していたはずの「小さな内部」が、移動し、消滅し、気がつくと外部に排除されてしまいます。そのために絶えず環境の変化に敏感であり、流行り廃りをサーチし、外部へ「開いて」、まわりの空気を読みつづけなければなりません。


処世的な開かれ

人々が現在、懸命に「空気を読み」内部に居続けようとするのは、「透明な社会」では内部にいることを実感できにくい。無垢が欠乏に対して「処世的な開かれ」によって懸命に内部を作り出し、帰属しようとしています。

「倫理的な開かれ」では、「人類学機械」としての形而上学を解体するように「外部へ開いていく」ことを目的として、外部へ開いてきます。これに対して、ヘタレ化としての「開かれ」は、「透明な社会」で主体を維持するために、内部へ閉じることを目的として、外部へ開いてきます。いわば、この社会を生き抜くための処世術としての開かれであり、ボクは「処世的な開かれ」と呼びました。

たとえば、「処世的開かれ」して、最近の嫌韓や、右翼傾向をあげることができるのではないでしょうか。韓国や外国を外部に置くことによって、そこに外国からの攻撃されるという価値(無垢の幻想)を生みだし、それを共有し、消費することによって、自分たちが内部にいるという強い実感を望んでいるのです。

また2ちゃんねるなどの「祭り」も同様です。ある共通したバッシングする相手を、外部へと想定し、一気に内部を作り上げて、実感を味わうのです。このような内部は急激に立ち上げり、「乗り遅れない」ことが重視され、それ故に一種のトランス状態のような「祭り」となるのですが、すぐに消失するために、いつまでも帰属できません。次の「祭り」にむいて「開いていく」ことが必要です。

さらには、電車男も同様な構造が作動しています。エルメスという外部を超越的な女神としておくことによって、エルメスという内部価値(無垢の幻想)を生み、それを攻落していくことで「おまいら」という内部を作動させ、帰属を強く実感するのです。しかしそれもいつまでも続きません。次には電波男にしろ、「ギター男」にしろ、次へ向かって行かなければなりません。


エリート主義

ここで問題になるのが、このような「透明な社会」で果たして、「倫理的開かれ」「処世的開かれ」の区別が行えるのか、とうことです。

宮台は、「限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学宮台真司 北田暁大 ISBN:490246506X「戦略的、教養的アイロニー「強迫的アイロニーを分けました。

宮台  2ちゃんねらーの大半は「ズラす振る舞い」にオブセッシブ(強迫的)で、「ズラす自分から自覚的にズレる振る舞い」には鈍感です。自己適用を欠いたアイロニストを、僕は「オブセッシブ(強迫的)なアイロニスト」と読んでいますが、三島が「高度のアイロニスト」だとすると、「オブセッシブ(強迫的)なアイロニスト」とは、「低度のアイロニスト」だといえるでしょう。

宮台  僕のいうところの「あえて」とは、パンピー向けのネガティブな言い方をすれば「オブセッシブ(強迫的)でなく、参入離脱自由になれ」ということだし、エリート向けのポジティブな言い方をすれば「単に正しいとおもうことをいう(する)のでなく、戦略的に順序を立てていえ(しろ)」ということになります。・・・”エリート向けの「あえて」”とはマキャベリストたれということです。

[お勉強]限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司北田暁大(2005) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051027

「戦略的アイロニー「倫理的な開かれ」であり、「強迫的なアイロニー「処世的開かれ」に対応するのではないでしょうか。「戦略的アイロニーとは、真理とは歴史によって作られるということから、徹底的に歴史を学び、いま真理とされているものが、どのような背景によって作られたものか、勉強をしよう!そして、「処世的開かれ」「倫理的な開かれ」の違いを見わけよう。」という「エリート主義」です。


「倫理的開かれ」「処世的開かれ」の差の透明化

たとえば、エリートとヘタレは区別できるかもしれません。エリートは知識豊富で勉強家です。さらに、エリートが行う「開かれ」「倫理的開かれ」であり、ヘタレが行う「開かれ」「処世的開かれ」である。ということは、もしかすると言えるかもしれません。しかし「透明な社会」において、エリートが行う「倫理的開かれ」とヘタレが行う「処世的開かれ」は行為者の差以外にの差異を見いだせるのでしょうか。

「処世的な開かれ」で示したように、宮台のいうように2ちゃんねらーの大半は「ズラす振る舞い」にオブセッシブ(強迫的)で、「ズラす自分から自覚的にズレる振る舞い」には鈍感」とはいえません。強迫的に見えて、同じ場に居続けることは、流行りから外れますので、次の流行りにむけて、「自覚的にズレる振る舞い」に敏感です。

また「透明な社会」では、内部/外部の境界が明確ではないために、「倫理的な開かれ」もエリート主義として、まず立ち位置を確保しなければなりません。そして、どのような形でも、「開いていく」ときに起こるのが、ここに「悪い内部」があるから「開かなければならないんだ」、という指摘によって、その点を外部を排除して、自分自身を中心に内部を作動させてしまういます。このときに、内部への「強迫的」に帰属の「下心」があるか、ないか、は特定できるでしょうか。

2ちゃんねるを例に考えると、参加することが、「処世的開かれ」であること、かまって欲しいということから逃れられません。そのような悪意のあるコメントへの反論であって、それを排除し、内部を確保することが起こり、主体が「生き生き」することになります。

そして仮の内部が作動しはじめれば、それはどこまで主体にコントロール可能でしょうか。上手くいくほど、多くの人がその内部へなだれ込み、大きな波紋となって、あるいは提案者は神として祭り上げられ、内部として作動し、「祭り」となり、どこかで外部を排除しています。たとえばデリダ脱構築を考案したあとに、様々な脱構築ブームになり、脱構築が形骸化、権威化していきました。

このような中でなにが「倫理的な開かれ」で、なにが「処世的開かれ」であるか、特定することができるでしょうか。

「限界の思考」で北田もこのような点を指摘しています。

北田  現在は、否定的であれ、肯定的であれ、参照項として機能する言説が存在しない。・・・「歴史の終焉」の終焉」の時代だったと思うんですね。

「操縦する側」責任倫理が実効性を持つには、操縦する側/される側という区別が意味を持つような社会状況が、存在していなければならない。現代の日本がそのような社会状況にあるのかどうか、ということが問題です。・・・高い社会的流動性共同体主義とが奇妙な結婚を実現している社会空間では、宮台さんがめざされているようなマキャベリズムを実現するのは、かなり困難であると私は思うのです。

社会的な意味論の次元では、もはや「操縦する側/される側」という区別は失効している、という前提から、私は言語戦略を考えます。

[お勉強]限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司北田暁大(2005) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051027

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