続々 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか 電子機器とアイロニーの消失

pikarrr2005-12-06


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「動物」的コミュニケーション


動物の個体間は(遺伝子によって規定された)先天的なシグナルの確実なコミュニケーションが行われ、それが群れの集団性を保つ。「動物」は個体間の秩序を集団性によって保っているといえる。ここではいわば集団そのものが個体であるとも言える。たとえば一匹のアリは個体であるが、集団で見ると、兵隊アリ、女王アリなど、先天的に特性をもち、アリの集団が一つの生き物にように秩序を持ち動いていると言える。

さらに拡張すれば、花の出す匂いが確実に蜂を引きつけ、そして受粉を行う。これらには、ある特定の花とある特定の蜂という密接な結びつきがあるものがある。これも一つの個体であるといえる。これはアフォーダンスな考え方だろう。「動物」はこのような個体性と集団性の階層的な秩序によって成り立っている。




「人間」的コミュニケーション


しかし人間は動物のような確実なコミュニケーションが失われているために、個体間に「間」がある。そしてそこに「不安」が生まれるのだ。そしてそれをいかに埋め、より確実なコミュニケーションをするかを「欲望」する。

伝達されるのは、どこまでもシニフィアンなのであり、意味をつたえるには、後天的に共有されたコンテクストが必要になる。それが「社会性」だ。たとえば信仰も「間」を埋める「社会性」である。たとえばパノプティコンは囚人を不安にして「間」をあけ、道徳というコンテクストを内面化する装置なのだ。

そしてこれによって、このように、コミュニケーションの本質は、「間」「不安」を解消する行為であることになる。




電子コミュニケーションと「間」の変容


コミュニケーションの速度を「応答性」と呼ぶ。そしてテクノロジーの発展により、社会的インフラという下部構造として、「応答性」は向上している。そしてインフラとしての応答性の向上は「間」のあり方を変容させているのではないだろうか。

その例として、手紙とメールのインフラの差をあげると、たとえばメールでは「おはよ」だけで成立するという社会的なコンテクストがある。このようなコンテクストを可能にしているは、メールの応答性が向上しているというメディアとしての特徴を元にしている。

「間」の本質が不安の解消にあるということなら、たとえば手紙というインフラでは、「間」の不安から、相手の意味を読みとろうとして、様々に思惟する。しかしメール、あるいは2ちゃんねるなどでもいいのだが、「おはよ」だけで成立するという軽さ故に、メールの内容でなく、メールの往復そのもので、不安が解消される特性があるのではないか。




ゲームというコミュニケーション


ゲームでは誰とコミュニケーションをしているのだろうか。ゲームをプレイすることは、多様なコミュニケーションしている。まず「これは話題のゲームだ!」というときには、社会的なコンテクストとして、「みんな」の意味を読みとろうとしている。「ほ〜このゲーム制作者の狙いはこれか!」というときには、オタク的コンテクストとして、制作者の意味を読みとろうとしている。さらにはゲームの中においては、ゲーム内コンテクストとして、ゲームの登場人物の言う意味を読みとるとする。さらにゲーム機を操作するというときに、これを機械と「人間」との疑似コミュニケーションと言えるのではないだろうか。

たとえばこれはベイトソンの学習理論によって、説明できる。ベイトソンの学習理論では、コミュニケーションを広義な意味に取り、分類する。

ゼロ学習・・・刺激ー反応が単純な一対一で行われる。動物の本能など
学習Ⅰ・・・単純な反復学習。パブロフの犬
学習Ⅱ・・・学習Ⅰのコンテクストの学習。メタレベルの理解。

この分類では、ゲームにおいて、「みんな」、あるいは「ゲーム制作者」とのコミュニケーションは、学習Ⅱ。ゲーム内のコミュニケーションは学習Ⅰ、あるいはⅡ。そして機械操作は、ゼロ学習に相当するわけだ。




「ゼロ学習」の快楽


すなわち、機械操作は、動物の「間」がないコミュニケーションと同じ次元にある。たとえば車を飛ばす気持ちよさは、「僕はこんなに車を飛ばしているぞ!」という社会的なコンテクストとして、「みんな」への自慢する気持ちよさがある。これは「間」埋める気持ちよさでもあるが、実は「間」がないことの快楽=ゼロ学習の快楽もあるのではないか。これを一言で言うと、「身体の拡張」だ。車は足の拡張、PCは頭脳の拡張という特性をもつ。このゼロ学習の快楽は、機械操作の継続が快楽を生む。さらにこれをボクは「フロー体験」につなげる。

たとえば、ケータイや2ちゃんねるなども、コミュニケーションが活発になる、2ちゃんの「祭り」などでは、このような操作そのもの快楽もあるのではないか。このような操作の快楽では、「間」の不安は擬似的に喪失しする。このように現代では深く思惟することが、回避される傾向にあるのではだろうか。
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*1:続 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050624

*2:デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040718

*3:画像元 http://www5b.biglobe.ne.jp/~D-STYLE/nsg/koukuu.htm