無垢への欲望


1 「無垢」はなぜ「汚物」なのか
2 なぜ芸術は人々の魂を揺さぶるのか




1 「無垢」はなぜ「汚物」なのか

なぜ「無垢」を求めるのか


まずはじめに人は根本的に欠けた存在なので、完全な充足を求めているということです。そのために「無垢」を欲望します。なぜ「無垢」を求めるのかというと、それが処女地(フロンティア)だからです。そこに一番に乗り込む、征服することによって、私が1番、すなわと他者とは違う、唯一な存在として承認され、充足されます。たとえば、だれも登ったことがない山を一番に登ることによって、彼には、初登頂、初征服した唯一な存在としての名誉が与えられ、充足が得られます。

たとえば、大航海時代には、みなが未開地を求めて世界へ旅立ちました。それによって、アメリカ大陸は発見され、発見者に名誉が与えられます。しかしここでおかしいのが、原住民がいたのになぜ発見なのか。処女地(フロンティア)なのか。それは「西洋というコミュニティ」の価値として、アメリカ大陸はフロンティアであり、発見であったからです。アメリカ大陸発見者の名誉など、原住人にしてみれば、なにを言ってるの?ということになります。




無垢の幻想


だれも登ったことがない山を一番に登ることの価値も、それが価値あることだと、承認するコミュニティがあるからです。それが無垢であるという価値は、あるコミュニティの承認によって得られますから、だからボクはこれを「無垢の幻想」と呼んでいます。

「無垢の幻想」として、物理的な処女地をあげましたが、コミュニティ内にそれを行うことに価値があるというときすべてに「無垢の幻想」が生まれます。たとえばある算数の問題が解けることにしろ、新品の靴を買うことにしろ、誰かとコミュニケーションするにしろ、属するコミュニティが、そこに価値を認めるときに、小さな「無垢の幻想」が生まれ、それをすることで、小さな充足をえるのです。小さなところでは、「上から二冊目の本」を買うことから、大きなところでは、オリンピックで優勝するなど、より多くの人が欲望することほど、大きな「無垢」があり、それを達成することで大きな充足が得られます。しかしどのような無垢を征服しても、人が完全に充足することはないので、人は一生欲望し続けます。




若者はディープを目指す


現代では、大きな無垢がなくなってきています。なにをやってもすでに誰かがやってきたことでしかない。特に社会という「大きなコミュニティ」ではそうです。だから人々は無垢を求めて、コミュニティを細分化させています。たとえば、オタクという「小さなコミュニティ」の中で有名な声優と握手したという価値は、オタク以外の人々には価値がありません。しかしオタクたちにはものすごく大きな名誉です。このように「無垢」への欲望は、小さなコミュニティ内で、小さいながらも、誰もやっていない無垢へ、よりディープへ向かっています。

特に若いときは過剰に自分の価値を求めますが、現代で、若い人が、家庭や学校などで言われる社会的な価値に興味がもてないのは、社会という「大きなコミュニティ」には無垢が見いだせないからです。だから無垢を求めて、オタク、ネット、ファッションなどのより趣味的な「小さなコミュニティ」に向かいます。




社会的なタブーへの近接に「汚物」は現れる


そしてより細分化された価値の誰も到達していないというディープな方向へ向かう時に、社会的に禁止され、タブー視されているところへ向かうのは、当然ともいえます。たとえば「女たちはなぜパンツを見せるのか」*1の中で言いたかったのも、このようなことです。若い女性たちが、無垢を求めてディープへ向かうとき、社会的に「女性が下着であり、肌を露出することはいけない」というタブーへ近接するのです。そしてそれを、そのコミュニティの外からみると、奇妙で、病的に写ってしまうのです。

古くは不良少年が犯罪をするのも、あるいはかつてロック少年が不良と呼ばれたのも、女子高生がスカートを短くするのも、オタクが幼児をロリコンとして性の対象とするのも、社会的なタブーへの近接であり、過剰な「無垢」への欲望です。このようなことをボクは「汚物性」と呼んでいます。

「無垢の汚物性」を現代の若者で説明しましたが、どの時代も無垢とは、社会的な価値の境界、タブーなところから現れるものであり、「汚物」であるのではないでしょうか。革新的なことは往々にして、常識を逸脱し、過剰であり、醜悪で、非難されるところから始まる。そしてボクたちはそのようなものに眉をひそめながらも、なぜか引きつけられてしまう。このような「無垢の汚物性」は、コミュニティの内と外という境界を脱構築し、コミュニティを新陳代謝させる傾向でもあるのです。




2 なぜ芸術は人々の魂を揺さぶるのか

「孤独な箱」の中の私


ボクは「コミュニケーションは必ず失敗する」といいました。ヴィトゲンシュタイン「語り得ぬもの」として示されるように、言語は不完全なコミュニケーション手段であり、またある人がいった言葉の(本当の)意味を、完全に人に伝えることはできません。そのような意味で、ボクたちはそれぞれが隔離された「孤独な箱」に閉じこめられた存在であると言えます。

ボクが「まずはじめに人は根本的に欠けた存在なので、完全な充足を求めている」というのは、このような意味です。

まずはじめに人は根本的に欠けた存在なので、完全な充足を求めているということです。そのために「無垢」を欲望します。・・・そこに一番に乗り込む、征服することによって、私が1番、すなわと他者とは違う、唯一な存在として承認され、充足されます。・・・それが無垢であるという価値は、あるコミュニティの承認によって得られますから、だからボクはこれを「無垢の幻想」と呼んでいます。

「無垢」はなぜ「汚物」なのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051123

私が孤独であるのは、私だけでは、欠けた私を充足できずに、他者の(コミュニティの)承認を求めているが得られないためです。そのような意味で、ボクたちはそれぞれが隔離された「孤独な箱」に閉じこめられた存在だということです。




芸術というコミュニケーション手段


このために、コミュニケーション手段は、言語を越えています。顔の表情であり、涙を流すであり、行為による感情表現や、スキンシップなど様々な方法によって、言いたいことを伝えようします。そして芸術とはこのような言語を越えたコミュニケーション手段の一つではないでしょうか。

たとえば詩は読んだままの(コンスタティブな)意味では決して伝わらない意味を、その行間、音感、見た目など、抽象的な表現によって、パフォーマティブに意味を伝達しようとします。このような詩や小説などの言語表現だけでなく、絵、動画、ダンスなどの視覚、音楽などの聴覚などによって、「孤独の箱」の間で、少しでも意味を共有し、ともに感動し、ともに笑うことが求められます。




芸術の「大衆性」「芸術性(自己探求)」


芸術には、大衆へ広く受け入れられることを狙った「大衆性」と、大衆受けを重視せず、自分の表現したいものを表現するというような「自己探求性」があります。特に「芸術性」と言われるときには、後者の「自己探求」としての芸術を指すのではないでしょうか。これらは二項対立するものではなく、どのような芸術の中にもあるバランスとしてあるものでしょう。

そして、特に芸術の「大衆性」の追求は、より多くの人々に比較的容易に共感しやすいように、社会的なコミュニティ内部の価値、すなわち「無垢の幻想」が演出されます。




「芸術性」という崇高さ


それに比べて、「芸術性」の探求は、社会的なコミュニティ内部の価値、(無垢の幻想)を解体する、すなわちそれは自分の内部にある社会的なコミュニティ内部の価値、(無垢の幻想)を解体し、自分の感性の核心、「本当の無垢」へ向かうような行為です。芸術家の利己的な自己探求であり、表現者の内部へと向かうような孤独な行為です。

これは、デカルトが疑えないものを思考し、「我思う故に我在り」という境地に達したものに似ています。しかしデカルトの懐疑は、「疑えるものの深層を目指す」というような明確な問題意識をもった、いわば言語という価値の中での探求であるのに対して、芸術家の探求は、漠然とした不安であり、孤独であり、根元的な飢餓感から、自分がどのような問題意識をもち、なにを求めているのかもわからないにもかかわらず、表現せずにはおれない衝動でしょう。

しかしこのような「芸術性」の高い作品が、人々に深い共感を与えるという逆説が起こります。それは、芸術家が自己の内部へ向かい、人の感性の核心、「本当の無垢」に近接するところを表現することによって、「孤独な箱」に閉じこめられたボクたちが、本来、決して共鳴しえないだろう深いところで共鳴し、人々は自分でもわからないうちに「孤独な魂」を揺さぶられるからではないでしょうか。

このような意味で、芸術の「大衆性」「無垢の幻想」による容易な共鳴であるのに対して、芸術の「芸術性」「本物の無垢」の深い共鳴を呼び、「崇高」なものとされるのではないでしょうか。




アウラという幻想


しかしこれは形而上学的、あるいはアウラ的な芸術の理解かもしれません。時代性、空間性のコンテクスト(状況)を越えたところ、「無垢の幻想」を解体しところにあり、ボクたちの魂をふるわせるような「本当の無垢」という超越的なものは、存在するのでしょうか。たとえば、名画といわれる、ダビンチのモナリザや、ゴッポの「星月夜」などなどによって、現代の西洋文明から離れた人々、歴史的に西洋文明を隔絶した人々の魂も震えるのでしょうか。

ポストモダン的にいえば、時代性、空間性に毒されていない、すなわちコンテクストに依存しない「本当の無垢」などないということです。だから「芸術性」の崇高さとはあくまで、時代性、空間性のコンテクスト(状況)に依存したところでの、コミュニケーションでしかありません。

多くにおいて芸術性と言われる芸術作品は、その芸術家の生き様とともに流通することが多いのも事実です。ボクたちはその芸術作品の崇高さを、この作品に崇高さを感じるというよりも、その芸術家がどれだけの魂を込めて、その作品を作ったかという事実とともに、この作品が「崇高である」と学習することが多いのも事実です。




芸術作品という「汚物」


歴史的、空間的に、どのような文化にあっても、コミュニティ内で芸術には価値がもたれたのではないでしょうか。現代においても、芸術作品は、より大衆化したとは言え、楽しまれ、感動を生み、時に魂が揺さぶります。「無垢」が時代性、空間性に毒された幻想であっても、芸術家は決して到達しないだろう「本物の無垢」を求めて、表現しつづけるのです。

「自分が欠けた存在である」という彼らの飢餓感が、この形而上学的な行為を止めること許さないのです。それは、芸術表現が、言語を越えた「孤独な箱」間の有効なコミュニケーション手段であり、そこに作動するのが、「無垢の欲望」であるからです。そして多くにおいて、革新的な「芸術」は、過剰で、社会的タブーを越えた「汚物」なのです。

古くは不良少年が犯罪をするのも、あるいはかつてロック少年が不良と呼ばれたのも、女子高生がスカートを短くするのも、オタクが幼児をロリコンとして性の対象とするのも、社会的なタブーへの近接であり、過剰な「無垢」への欲望です。このようなことをボクは「汚物性」と呼んでいます。

「無垢の汚物性」を現代の若者で説明しましたが、どの時代も無垢とは、社会的な価値の境界、タブーなところから現れるものであり、「汚物」であるのではないでしょうか。革新的なことは往々にして、常識を逸脱し、過剰であり、醜悪で、非難されるところから始まる。そしてボクたちはそのようなものに眉をひそめながらも、なぜか引きつけられてしまう。このような「無垢の汚物性」は、コミュニティの内と外という境界を脱構築し、コミュニティを新陳代謝させる傾向でもあるのです。

「無垢」はなぜ「汚物」なのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051123