なぜレイザーラモンHGは憂鬱なのか  「愛」が健全な無垢への欲望を導く

pikarrr2005-12-07

レイザーラモンHGの憂鬱


たとえば、レイザーラモンHG「無垢」として登場した。その「汚物」は、人々を欲望させたのである。そしてこの無垢は次第に減算していく、消費されていく。多くにおいてそれは「忘却」であり、反復によって差異が消費されていく。今後も生き残っていくために、レイザーラモンHGは無垢を生み出さなければならない。それは次のギャグを考えることではない。仮にそれが受けても、また消費されるだろう。

それは、愛されることである。愛される「強い内部」を作ることである。「強い内部」において、無垢は生み出されるのである。たとえば、様々な「永遠のスター」たちは、深く愛されることによって、そのような「強い内部」の存在によって、「忘却」に逆らい、無垢が生み出されるのである。




減算の無垢と加算の無垢


無垢には二通りの無垢がある。一つは「減算の無垢」であり、もう一つは「加算の無垢」である。たとえば「上から二冊目」の本は、使われた瞬間に減算される。しかし使いこむことで愛着がわいていき、無垢が加算される。

無垢とは、幻想である。コミュニティ内の価値として生まれる。無垢の減算とは「消費」であり、反復によって減算されていく。それが「消費」によって減算されるのは、その対象へのまなざしの強度が低下するためである。このような強度の低下の本質は、「忘却」である。多くにおいて、他者が良いといったというような、安易な感染は、容易に減算するのだ。

無垢の加算とは「創造」であり、反復によって加算されていく。それが「創造」によって加算されるのは、その対象へのまなざしの強度が増加するためである。このような強度の増加は「忘却」に逆らうのである。




内部への強い愛着


ではいかに「忘却」に逆らい、まなざしの強度は継続、増加されるのだろうか。多くにおいて強い執着である。ここでは、愛であるか、憎しみであるか、悲しみであるかは、関係ない、それは強度の問題である。対象への強い興味の継続が、無垢を加算するのである。そしてなにに、なぜ執着するか、そこには意味はなのではないだろうか。そこにあるのは、恣意性である。

しかし通常、ある一時期の個人的な経験が長期的に継続されというよりも、その後、他者との関係性の中で、強い内部がつくられ、無垢が加算されていくのだ。たとえば、無垢を外部から与えられすぎると、「愛」を生み出せない。ただ消費するだけであり、どこかで無垢が欠乏していき、孤独へ向かう。だから単なる他者の借り物という静的な無垢の消費でなく、内部を作動し、その内部に帰属し、動的に「創造」することによって、無垢を生み出していくのである。そしてこのような強い帰属を支えるのが、愛着である。




「愛」を生む差異化運動


このような動的に「創造」する内部で無垢を生むために「差異化運動」が起こる。差異化運動とは、他者と差異をより細部に見いだそうとする運動である。差異化運動が魅力的なのはより詳細に自分がなにものか記述するからである。

差異化運動

たとえば、なぜ自分と「近い人」とのおしゃべりは楽しいのでしょうか。こどもはこどもと、アニメ好きはアニメ好きと、ガンダム好きはガンダム好きと語らうことは楽しいです。そのディテイルまで理解し合える相手と巡り会えることは少ないですが、そのような相手を巡り会い、コミュニケーションすることはわくわくする行為です。

より近い人と心象同期は、差異がより小さくなっていることを示します。そしてそれは、他者との関係性を密にしていると同時に、主体の単独性を高めているのです。たとえば、大人と子供がいると、それは大人と子供としてしか、差異化されません。しかしもし子供がもう一人加われば、それは「おとなしい子供」「活発な子供」と差異化されます。さらに「おとなしい子供」がもう一人加われば、「ぼつぼつしゃべる子供」「ほとんどしゃべらない子供」として差異化されます。このようにより近い他者は、私を複雑化します。すなわち私がなにものであるかをより明確化するのです。


私が私となるための他者

そしてさらにはこのような差異化は静的な位置の規定にはとどまりません。近い他者とのコミュニケーションは、差異化を動的に促進します。より細部において、近い他者との相違点を作り出す方向に向かいます。たとえば数学が得意な二人の子供がいれば、より違いを持とうと、互いに数学について競い勉強します。またマンガ好きの二人の子供がいれば、よりうまくマンガを書こうと努力します。

他者とのコミュニケーションは、私をつくっていきます。そしてより近い他者とのコミュニケーションは私をより詳細につくっていき、私はだれでもない私になっていく、単独性を高めるていきます。他者と「絆」を結ぶとは、単に他者と関係をつくることではなく、他者に対して、だれでもない人になるということです。それは「かけがえのない」人となることです。

これはコミュニティとしても現れます。たとえば音楽好きがコンサートで盛り上がり一体感をもつということは、外がから見ると、人々が均質化しているようにみえるかもしれませんが、内部では差異化運動が行われています。帰属意識を高めながら、単独性を高めているのです。すなわち他者とは主体の単独性を高め、コミュニティ内で他の誰でもない位置を見つけ、コミュニティを活性化するための特別な存在なのです。

他者について その2 他者の特別性 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040602

たとえばこれはスポーツでも同じである。互いに切磋琢磨することにより、その差はわずかになる。それは互いに同じ苦労をし、相手の細部がわかることである。それはライバルと呼ばれ、そこには強い尊敬の愛がある。そしてこのギリギリの差異により競い合う快楽は健全な無垢へ欲望である。「愛」「健全」な無垢への欲望を導くのである。
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