生(エロス)への回帰

pikarrr2005-12-14

■個体性と集団性

生命においてはある種のバランスが存在する。環境圧/生命秩序維持である。環境圧とは静へ向かう力(エントロピーの増加)であり、それに逆らい、動へ向かう力(エンタルピーの減少)がエロスである。

エロスとは動物的な生の本能であり、生きようとする環境圧に対する生命秩序維持が目指される。しかしエロスはニーチェ力への意志のようにエゴイスティックな力ではない。エロスとしての生命秩序維持は、個体性と集団性のバランスで保たれている。

なにをもって、個体とするのかは不明確である。そして集団性という個体間の情報伝達は、先天的に作られたシステムによって、高い確実性で行われる。そのように環境に対峙する。


■社会性と単独性

生命としての高等化は、個体性を向上させる。それは集団性を低下させることとなる。このために個体間の情報交換は、後天的な「社会性」に求められるようになる。このような高等生物では、「個体性」への力と、集団性が補完する「社会性」という集団化の力としてバランスを保つことになる。

社会性におけるコミュニケーションでは、意味の伝達が必要である。しかし意味の伝達は不可能性を孕み、集団性は失敗する。このために絶えず「不安」が現れ、ヒステリックな過剰性を生む。ここでは、いかに他者を引きつけるかが、重要な問題になる。そのためには、他者との差異が重要になる。目立つこと、社会性の中で埋もれるのではなく、誰とも違う私という「単独性」が目指される。


タナトスの過剰性

人間がもっとも高い社会性を持つ。人間のコミュニケーションは言語であり、意味の伝達の不完全性はたえず過剰な「不安」が現れる。それは「この私」を求める強い欲望を生む。

さらには、多くにおいて、動物は環境に逆らい、生きることに必死であり、いつもエロスは環境の力に対して不足しているのに対して、間が環境の内部に秩序世界を構築したとき、その内部でエロスは過剰へと転ずる。「人間」の内部では、いつもエロスは、容易にタナトスに転倒するのである。これが本能の壊れた動物としての人間の特性である。


■エロス=タナトス

環境という静へ向かう力は、生命秩序維持にとって、動を抑圧する「不快なもの」となる。このために生命は、「不快なもの」を排除し、動として安定することを志向する。これが、快感原則である。

快感原則が、緊張を和らげる、主体内部の静へ向かうのであるが、ここで重要なのは生命にとって静とは、安定した動である、ということだ。それに対して、快感原則の彼岸は、本来環境が作り出す不快を、自ら作り出すことを示す。安定した動であるエロスが、自ら不安定を生みだすのである。これがタナトスである。

これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等速度運動である。一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっているような安定した状態である。

そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車がブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に対抗して、等速度運動しようとする

それに対して、タナトスは加速度運動である。エロスによって等速度運動し、快感であるにも関わらず、自ら加速することによって、物体には力が働く。電車が加速すると、車内の人に力が働く現象である。すなわちエロスもタナトスも環境の外圧(エントロピーの増加)に対抗する力であり、環境と相反し安定を目指す動物的な力がエロスであり、それを越えて安定を崩す過剰がタナトスである。


■環境的現実界

この欲動理解から、ラカンの不明瞭な現実界の姿見えてくるのではないだろうか。ラカン現実界の一つの説明が、カントの「ものそのもの」である。これがここでいう環境であり、「環境的現実界と呼ぼう。環境とは単に自然世界ということではない。人間の認識の向こうにあり、人間が決して認識できないものである。その本質は不確実性である。偶然性とカオスが渦巻く、何がおこるか不確定な世界。本来、世界とはそのようにあり、人間は「現象」として見たいように見ているだけである。人間は、この環境世界の内部に秩序ある世界を構築したのである。

環境的現実界は、人間社会(内部)/環境(外部)と考えることができるが、これは物理的な制約とは関係がない。大きなところでは地震、事故などの偶発的な障害もそうであれば、庭の花壇も飼い慣らされているようで、そこのは不確実性が内在している。そして人間そのものもまた環境的現実界である。心身二元論的にいえば、この身体で何が起こっているかわからない。不確実な存在である。そして管理できない欲動そのものも環境的現実界である。


■去勢的現実界

しかしここで区分が必要である。欲動が過剰でないときには、エロス(生の欲動)と呼ばれ、環境的現実界に分類されるが、過剰であるときには、タナトス死の欲動)と呼ばれる。これは、「去勢的現実界と言える。ラカンの理解では、タナトス死の欲動)は象徴界(社会秩序)への参入によって、去勢による抑圧によって生まれる。これはまさに、動物的なエロスが環境の力を越えたとき、本来エロスによって構築された秩序が、抑圧として働くのである。社会で生きるとは、このような抑圧を受けて、内部に過剰性を持ち続けるのである。

ドゥルーズは、ラカンが欲動を去勢によるタナトス死の欲動)として強調して考えたことを批判し、そのエロス(生の欲動)面を強調した理由がわかる。タナトス死の欲動)は欲動の一部である。しかし精神分析においては、抑圧された欲動が問題であり、それが「人間」なのである。


■本能の壊れた動物

現代では、環境からの脅威は軽減されている。しかしエロスは止められない。外部にでられずに閉じこめられ、内部圧力は増していく。止まらないエロス、すなわちタナトスはどこに向かうのか。たとえば、それは内部での殺し合うに向かうのである。有史以来、人は過剰性によって互いに傷つけあってきたのだ。

闘いは、過剰性の解消装置だった。兵器戦争でなんなる悲惨な場になったが、戦争は人々を生き生きさせる装置であった。いまならワールドカップの熱狂があるが、サポーターでなく、男子は全員がプレーヤーになる。そして敵国と戦う。賭けるのは命程度のものでなく、家族も含めた我々のコミュニティそのものである。これにまさる無垢があるだろうか。

有効な使用方法は、内部世界の拡張に費やされている。環境の不確実性を秩序あるものとして開拓するのである。それが加速されたのが近代であり、数量化革命である。世界のすべてを定量的に数値化する手法は確実に、開拓を成功させ、内部世界を拡張した。それは地球から宇宙へという空間から、物理的な量子力学によるミクロ的、そして宇宙物理学的なマクロ的へ、あるいは遺伝子工学による身体へなどなどへと向かうのである。

たとえば量子力学が、原子力発電所に応用され人類の英知と言われるときは、エロスであり、それが原子爆弾として使われるときには、タナトスと呼ばれるのである。だからこの分類は両義的である。あるときは豊かさを生み、すばらしい芸術作品を世に生み出すが、またある時は、殺戮の狂気へ向かう。そもそもにおいて過剰性があり、それが有効であるか、どうかに決定できないだろう。これは「人間」が生まれた時から内部に抱えた問題なのであり、「本能の壊れた動物」としての「人間」である。