続々 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか その2

pikarrr2005-12-15

「サイボーグ技術が人類を変える」

NHKスペシャル「サイボーグ技術が人類を変える」*1を見た。現時点での「身体の拡張」の可能性について立花隆によるレポートであった。そこでは、すでに身体から脳までサイボーグ化の研究が進み、使い込むことで、まるで身体の一部のような錯覚が起こるということであった。それはSFの世界であり、衝撃的なものであった。

しかし「身体の拡張」そのものはそれほど特別なことだろうか。ボクは、機械操作する快楽として、「身体の拡張」について語った。車、テレビ、PC、掃除機などなど、いわばボクたちはすでに広義のサイボーグ化されているのではないだろうか。あるいは、アフォーダンス的に考えると、生物とは環境と関係性で生きているのであり、いわば外部との直結は特に新しいものではないとも考えられないだろうか。

トム・オースティン:
アンディ・クラークは『NaturalBornCyborgs(=生まれながらのサイボーグ)』という自著の中で、人間はテクノロジを吸収し、頼り、「naturalself-extensions(=自分の延長、自身の体の一部)」にしてしまうと書いています。テクノロジを自分の能力として取り入れてしまうのです。たとえば、野球のバット。練習を重ねるにつれ、腕の延長のように扱うようになります。そして腕時計。「今何時か分かりますか?」と聞かれて、「はい、腕時計を持っていますから」と答える人はいないと思います。自然に腕時計を見て、時間を伝えるでしょう。すでに体の一部となっているテクノロジにはどのようなものがありますか?

レイ・オッジー
私の頭にすぐ思い浮かぶのはGoogleです。つい先日も、Googleがどれほど体の一部になっているかという話を妻としていたところです。幼稚園の同窓会で、妻の友人が「今頃、○○ちゃんはどうしているんでしょうね」と言っていたのを聞き、私は数分後にラップトップを見せながら「この人じゃないですか?」と聞きました。彼女は画面を見て「(そんなことができるなんて)ちょっと怖いくらい」と言っていました。このように、Googleは多くの人にとって体の一部と化していると思います。また、電子メールも同じでしょう。

コラボレーションテクノロジーの未来を語るhttp://gartner-b3i.jp/pro/iv_01/

「無」の快楽

機械操作をしていて、より上手く操作しようなどの予期は、機械操作全体を見る目線からのものであり、「ゼロ学習」ではない。機械を操作するというよりもむしろ機械の一部になることと考えた方がいいだろう。「間」の消失は心の消失だからだ。ゼロ学習の快楽は「夢中」になるのではく、「無」になったときの快楽である。

だから「人間」には純粋なゼロ学習はできないのかもしれない。機械操作が「ゼロ学習」のような、すなわち「無」として行われたときの「ランニングハイ」のようなものかもしれない。そしてその快楽はいつも事後的にしか快感として認識できないのだ。


■機械の一部になる

機械を操作するというよりもむしろ機械の一部になるというような考え方としてアフォーダンスがある。人間は象徴界(言語)により人間である以前に、生物として生存圏の一部として存在している。象徴界はシグナルに意味を与えるコミュニケーションを可能にする、いわば「間」象徴界で埋めるとことであり、心を形づくる。

生存圏はシグナルが身体に直結する。「間」がなく、意味も心もない。このような「無」の状態でのシグナルの交換によって、生物として規定される。たとえば車が体の一部となるとき、体は車の一部となる。車を運転している状態が人の有り様の可能性を規定している。

生物はこのような世界=環境との関係で存在しているのに対して、人間は環境自体を変革する能力をもち、なおかつ容易に乗り換えることができる。これは人間には「間」があるからだ。象徴界という世界を言葉としてつくかえることにより、環境からの切りはなしを容易にしている。


■車は身体化し、心は「無」化する。

しかし環境はなければならない。そして考える以上に象徴界は環境という下部構造に拘束されているのではないだろうか。たとえば車は人間が作った環境であり、時代とともに変革されてきた。人間にはそのような力があるのだ。

しかし車を車として規定している下部構造としての環境がある。それは重力であり、資源であり、地形であるが、また人間の「身体」である。身体にあわない車など意味がない。たとえば人間の力では動かないハンドルなど、さらには身体とは単に物理的な体のことではない。人間の知能では理解できない操作方法、使うだけで不快になるブレーキなども、意味がない。

人間の操作可能性、快適性などを考慮するときに、車の構造は規定される。車は身体化し、心は「無」化する。人は歩くときにいちいち足の運びを意識しない、ようなことだ。これは人間が作り出す生活環境というインフラ全般で言えるだろう。そのように考えると、人間が作り出す環境もアフォーダンスとして機能している、それは身体の一部であり、身体が環境の一部なのである。
*2

*1:http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/sci/project/nhksp/

*2:続々 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051206