なぜ人々はマッチョ化するのか

pikarrr2006-01-12

「マッチョ化」させる場

セックスの話になると、100%出てくるのが、女性を商品として消費したという「マッチョ」な性体験の話である。まさにここにあるのは、童貞蔑視の裏面です。「セックスマッチョの優越」です。「セックスマッチョ物語」では、そこには男女の差がありません。女性も「マッチョ」化しています。女を商品化するように語る男も、女に商品化され、語られている、ということ。ベタには「から騒ぎ」的ということです。

浮気などを、テレビなのでは、マッチョに告白することは、許されるみたいない感じがあります。タレントはむしろテレビでマッチョに自己暴露します。テレビという公共の場で、むしろ暴露することで、許されるという感じがあります。

2ちゃんねるもマッチョな場として作動しています。たとえば、2ちゃんねるでの民族的なヘイトスピーチなどもここまで反社会的なことが言える俺様をみて、というマッチョ的です。これは、ただマッチョが馬鹿であるとか、所詮中高生が多いとか、そういうことだけでは、言い尽くせないのだと思います。そこにはマッチョ化させる状況があるということです。たとえば、テレビという場が、2ちゃんねるという場が、はずかしげもなく、マッチョでいられる。



■マッチョ化による繋がりの確認

本当のマッスルマッチョは自己の肉体を外部に起き、客観的に眺め賛同します。マッチョ化とは一つ距離感です。2ちゃんねる「〜だけど、どうよ?」という場合は発言が外部におかれます。このような発言の放り投げと波紋の客観視は、つながりの希薄さによる恐れでしょう。本来、発言は自分に根ざした責任あることを望みます。なぜなら発言は自分自身だからです。それを放り投げることは苦痛である。

しかしつながりが希薄は場とは、放り投げなければ、我が身が傷つく場です。「〜だけど、どうよ?」というマッチョ化は、そこにつながることへの障害があることを知っているということであり、それは「つながることが困難である」というメタコンテクストで、繋がりを保とうということです。だからこのような繋がりが希薄で緊張感に満たされた、みなが牽制しあっているような場に、空気を読めずに、マッチョ化せずにお人好しなマジ発言するものは、疎外されます。

このような複雑な空気読んだクールなマッチョな姿勢は、シニカルな態度です。このような繋がりが希薄な場は、現代の社会そのものの状況です。だから現代では、クールなマッチョな姿勢ががっこよいといわれます。そして2ちゃんねるなどでは、より繋がりが希薄であるために、より過剰にマッチョに振る舞うことが求められます。それはまた、放り投げた、無責任な、発言でもあります。たとえばベタなオタクがかっこ悪いのはマッチョに降る前ないという意味で、空気が読めない外部であるからです。



■マッチョ化による抑圧されたもの開示

精神分析の効果とは、欲望の承認です。社会的に承認されない様々な行為、考えを言葉にして、承認されること、それは単に誰かの「OK」ではなく、告白するという行為そのものであり、さらにそれは、他者の目線で自分自身を客観視する、ということです。このような効果は、友達へ相談することや、日記を書くことで安心するようなことでも得られます。

ネット、あるいはテレビなどの、誰かに見られているという視線の存在は、どうような精神分析装置としての作動している面があるでしょう。このような視線は、大文字の他者と呼ばれます。ネット、あるいはテレビなどで、マッチョによって「大いに」語ることの、その裏には、抑圧された「後ろめたさ」を公開し、「懺悔」することがあります。たとえば、「女はものだ。つぎつぎやりまくってるぜ」、あるいは人種差別的なヘイトスピーチは、心の中に芽生え、抑圧したものを、あえて「マッチョ」に言葉にすることによって、抑圧された「うしろめたさ」を現前化し、解放する快楽です。

こんな不届きなことを考えてしまったことを抑圧することの苦しさからの解放です。それはまた俺は俺が人種差別的なヘイトスピーチは間違っていることを知っている、という理性的な告白であり、社会的な内部への繋がりっているという、快楽です。



■マッチョによる承認の二重構造

ここで、ボクは、「集団」を二つの意味で使っています。一つは、身近ないわば繋がりの「集団」。マッチョな仲間のような回りからは差異化された、高い帰属意識をもった実在の集団であり、もう一つは、象徴界大文字の他者=神)という意味です。

「マッチョ化による繋がりの確認」は、実在の集団をもとめて、そして、「マッチョ化による抑圧されたもの開示」大文字の他者からの、究極的な承認を求めて行われます。
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