「クオリア」はなぜ語りえないのか。 その2

pikarrr2006-01-09

■僕たちは限りなく同じである。

クオリアはなぜ語りえないのか。」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051222)で示しましたが、クオリア(意味)が語り得ないのは、対象があり、意味へと変換するのは、因果律ではなく、その間に解釈項が入るためです。意味が主観であるのは、解釈項が「私」であるからです。だから私の解釈とあなたの解釈は異なる故に、対象のクオリア(意味)は主観であり、語り得ないのです。

しかし意味が主観だけでは、間主観性、すなわちコミュニケーションがなりたちません。そのために解釈項は「限りなく同じ」なのです。すなわち、あなたと私は「限りなく同じ」なのです。

クオリア(意味)=①遺伝子による進化上の経験+②言語による文明的経験+③生まれてからの記憶された経験

ボクがこのようにいうときに、「①遺伝子による進化上の経験」は人間では限りなく共通です(時間的には数億年の経験です)。「②言語による文明的経験」も文化圏が分割したのは、最近です。(時間的にはたかだか数万年前です。)このような意味で、あなたと私は「限りなく同じ」なのです。

これはクオリア(意味)の読み解きのヒントになると思います。たとえば「①遺伝子による進化上の記憶(経験)」は身体を構造的に解体することにより行われてきました。これはいわばハードであり、科学的にもっとも進んだ領域です。このソフト側は心理学、最近では進化心理学による考察があります。さらには「②言語による文明的経験」は人間の初期には、(心理)考古学による考察が進んでいますし、文化そのものの考察では、歴史学社会学などがあります。

認知科学は、このように状況証拠的なクオリア(意味)の全方位網として進んでいます。このような意味で、クオリア(意味)」とは認知科学の中心に立てられ、目指される旗です。「僕たちは限りなく同じである」故にはクオリア「語ることができる」可能性があるのです。



■僕たちはそれぞれが違う

しかしまた「限りなく同じである」とは、同じではないということです。クオリア論にもこのような残余が必ず残ります。ここに精神分析があるのではないでしょうか。精神分析における抑圧された無意識とは、小さい頃の経験(③生まれてからの記憶された経験)が、事後的に現れて、その人に決定的な影響を与える、すなわち「私」であるという個性を与える。

「動物」は生まれながらに高い完成度を備えている。すなわち「①遺伝子による進化上の経験」によって、クオリア(意味)が決定する。あるいは意味そのものが必要とされない。しかし「人間」は未熟な状態で生まれ、「②言語による文明的経験」、さらには「③生まれてからの記憶された経験」が決定的な意味をもつということを表している。

しかしここには科学を越えた、「人間/動物の差異」がなければならない、という倫理的次元の介入があることも否めません。たとえば、「僕たちは限りなく同じである」というのは、最近のリベラル的平等主義を支える倫理です。しかし、進化心理学など認知科学は倫理的に批判にさらされています。これはリベラルでは、「人間である僕たちは限りなく同じである」という「人間/動物の差異」に基づき、「人間は動物と違いみな平等だ」ということであるのに対して、認知科学における「僕たちは限りなく同じである」というのは、「人間/動物の差異」を解体するのです。

ここで重要なのは、ここでの「人間/動物の差異」の解体が、従来の科学の「人間は動物である」ということではなく、「動物も人間的である」という方向をもっているということです。