なぜもはや「ホリエモン」では笑えないのか。
①「隣のにいちゃん」「ホリエモン」
ライブドアショックである。ボクはライブドアに捜査のメスが入ったということよりも、片腕が死んだ、ということが、大きなターニングポイントになると思っている。もはや「ホリエモン」では笑えない、ということだ。
ボクは、ホリエモンというのは、どこまでも「隣のにいちゃん」だったと思う。想像界の住人で、何千億だろうが、リアリティがないのは、ホリエモン自身もリアリティを持っていなかったからだ。それはただの数字である。
何千億!!!!というとてつもない金額のすごさが伝わらないという意味で、リアリティーがない。しかしまあ会社買うんだから数千億するだろう、普通だな。というリアリティーをボクたちも、「ホリエモン」と共有している。それはマネーゲームということではなく、べたな例でいえば、酒代で数千円ってなんともないが、それがメシ代だとすげー高級と思ってしまうような感覚の差がある。単にそこにあるリアリティということだ。ボクたちの日常の金銭学と比べる必要はなく、そこにある数字というだけのことだ。
ボクはかつて「バリバリバリュー」などのセレブ紹介番組を金持ちを羨ましみながら、想像的に間近かでみるセレブがあまり僕らと変わらない人間で、逆にセレブを笑う番組として機能しているところが人気といった。
これを同じ意味でドラえもん的「ホリエモン」と想像的な関係を結んでいる。それは、ボクたちが騙されているということではなく、そこにあるリアリティを共有しているということであり、あるいはネットでは、そのような価値(文化)があるということだ。たとえば世界一金持ちのビルゲイツが「仲間」であるということである。そのような意味で、「ホリエモン」とボクたちは想像関係を結ぶことに成功している。
②「死」を刻印された「ホリエモン」
しかし、「死」の登場で、一気に幻想が冷めて、象徴的なものが突出した。それは、もはやかつての「ホリエモン」ではありえないだろう。このような想像的な関係が、「死」によって象徴的なものになる、すなわち去勢されることは良くある話である。たとえば、ビートたけしのバイク事故。彼は死ななかったけど、あれは一つの「去勢」の儀式だったともいえるだろう。去勢されたのは、たけしだけでなく、ボクたちもだ。
あるいは、NYテロも幻想の想像界からの去勢であると言える。イスラム圏を取り込んだ新たな資本主義秩序という下部構造(無意識)が、先進国に搾取された貧しい国々の抑圧された欲望という形で露出した。それは(暴力的な)去勢であると言えるかも知れない。
この「死」というのは、「ホリエモン」を大きく転換させるだろう。ライブドアが継続するのか、終わるのかわからないが。ボクたちとの想像関係を切断された「ホリエモン」は超越論的他者(シニフィアン)へと向かう。もうボクたちは「ホリエモン」に素直に笑えない。
最近の株ブームが、「親しみのセレブ」への想像的な幻想に支えられていたら、これはターニングポイントになるかもしれない。金に当然ついて回る象徴界(無意識)としての「力と死」が露呈する。この下部構造(無意識)によって、素直な株ブームの住人は去勢され、血にまみるかもしれない。それは騙されていたということではなく、本来あるが、実感できなかったものである。
「ホリエモン」はマネーゲームの人なのではなく、「お金でなんでも買える」という素朴な幻想を夢見た素朴な人である。マネーゲームにはそのような素朴な幻想はない。そして「ホリエモン」が村上ファンドなどのようにマネーゲームの人であれば、僕たちが「ホリエモン」に惹かれなかっただろう。僕たちはその素朴な夢に想像的に同期したのだ。そして「死」はそのような関係を去勢したのだ。
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