他者からの呼び声→まなざしの快楽→無垢(汚物)への欲望

pikarrr2006-01-22

①個体性、集団性、社会性

人間は個体の自律性(個体性)が向上したために、集団性が欠如した動物である。動物のように「完全な」集団行動をすることができない。しかしそれでも他者は特別な存在であり、他者志向性という欲動(他者からの呼び声)によって引きつけられる。いかに完全な集団性を獲得するかが問題となる。

人間において、この個体間の「間」を埋めるものが言語による意味の伝達である。動物では、情報→解釈(遺伝子)→命令によって集団の統制がとれるが、言語では、情報→解釈→命令において、いかに共通の解釈をするかという問題がおこる。それが大文字の他者という取り決め(社会性)の獲得である。社会に参入することで、集団性は社会性によって補完される。



②単独性の獲得の幻想=無垢、汚物

しかし大文字の他者には欠如があり、完全な意味の伝達はできない。そして完全な意味体系をもめ、たえず補完しつづけられる。それが、自己言及の穴である「私とはなに?」という単独性と求め続けることであり、欲望である。

大文字の他者(社会)の欠乏の補完物は、大文字の他者(社会)の外にしかないために、欲望は、大文字の他者の外めざすが、それは失われたものであり手にはいることはない。だからみんなが求めているだろうという(「まなざしの快楽」)対象(対象a)として現れ、それを獲得することで他者とは異なる私だけの単独性が獲得される幻想である。対象aが「無垢」性を帯び、また「汚物」であるのは、大文字の他者の外にあるという幻想だからである。

完全な他者との繋がり(集団性)を求める→大文字の他者社会性)の獲得→大文字の他者社会性)には欠如があり、欠如としての私の意味(単独性)の補完を欲望する→大文字の他者を越えた他者との近接(差異化運動)→単独性の獲得の幻想としての対象a無垢、汚物)への欲望

③闘争的か、相補的か

この大文字の他者を越えて他者への近接は、ラカンでは闘争的に描かれる。想像界では想像的な闘争、転移、ナルシシズムであり、象徴界では去勢であり、抑圧であり、現実界では享楽であり、死への欲動である。

しかしこれは必ずしも闘争的はなく、一つの相補的なシステムでとらえられるだろう。失われた集団性を求めるための社会性を維持するシステムである。想像界を挟んだ、象徴界/(想像界)/現実界のシステムであり、たとえば社会への協調/利己的な自己実現の物語では、この対立は相補的にシステムを支えているのである。



④動物/人間

人間は集団性が欠けている、ということである。そして集団性(他者との関係性)を求めることが欲動(他者志向性)である。たとえば動物は集団のC−5の位置に配置されても集団性を持ちえているために問題がない。しかし人間は集団性が失われ、それを補完する社会性によって、C−5位置に配置され、「あなたはC−5だよ」と名付けられる。しかしそこに残余としての「不安」が生まれる。なぜC−5なのか。誰が決めたのか、他の人はちゃんとB−3で収まっているのか、というコミュニケーション不全による不安である。そしてたえず私がC−5である「意味」が求められ続ける。

すなわちこれは「私とはなに?」という単独性の芽生えである。集団性への欲動が社会性を生み、社会性が単独性を生むのである。他者と密になろうとすることが、逆説的に、他者と差異化された私という意味を求めるという、利己的な主体を生み出すのである。

この社会性への対立としての単独性が「欲望」である。そして欲望は絶えず社会性(他者の承認)に支えられる。他者が望むことを望むのであり、社会性において、おまえは〜だからC−5なんだよ、という単独性への完全な関係を求めるのであり、そのためには他者と違っていなければならないのである。

この終わりのない他者との差異化、すなわち欲望が、人間の進歩を支えている。動物にはこのような差異化はない。完全な集団性も持っているために、変化は環境との関係という長期的な時間を要する進化によって、変化する。しかし人間は、自ら欲望という動力をもったために、進歩というダイナミズムをもった動物なのである。



⑤無垢/汚物への欲望

だから「私は誰?」という問いはいつも他者に向けて発せられる。教えてよ・・・繋がりたいよ・・・

欲望は他者に向けて行われる。見てよ。僕って凄いだろ。だから欲望の対象はみなが求めているが、誰も手にしていない「無垢」であり、「上から二冊目の本」である。そして他者が持っていないものへ、他者が禁じている「汚物」へ向けられる。性関係は無垢で、汚物として欲望され、現代ではロリータという幻想が、無垢な汚物である。

「他者からの呼び声(現実界からの声)」が、「まなざしの快楽」(象徴界)を想起し、(想像界に)「無垢(汚物)」という幻想を投射する。たとえば、ロリータという「無垢(汚物)」の幻想は、「他者からの呼び声」による「まなざしの快楽」が投影した幻想である。それがロリータであるのは、社会(象徴界)の外(禁止されたもの)にあるまだ誰も手に入れていない本当の「他者からの呼び声」がそこにあるという幻想である。このような「まなざしの快楽」が見せる幻想がなければ、ボクたちは「他者からの呼び声」に答えられないことによって発狂してしまうだろう。