Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その3 人工知能の不可能性

pikarrr2006-02-16

「ネットの欲望」


「ネットの欲望」とはこの短期間にウイルスのように広がったネットの力です。これは、どのような力によって、これほどのダイナミズムを持ち得ているのか。それが「ネットの欲望」です。当然、ボクも強い「ネットの欲望」の保持者でしょうし、素朴にこの本を受け入れる人々も保持者でしょう。このような素朴さが力を生んでいるということです。

ボクが「ネットの欲望」「機械論の欲望」と言ったのは、ある種、人間そのものの「症候」としての征服欲(無垢への欲望)が、ベタに作動しているなあ、ということです。

「人間を介さずに」といのがまさにキーワードですね。「いままでの様々な管理は人間を介したために、ある人間の意図に支配されてきたために、様々な事件、戦争、虐待などなどが起こってきた。それがもう人間を介さなくても良いんだ。そこには間違わない新たな神がいるんだ。このユートピアへ向かうのだ。」という素朴さが、あるように思うんです。「人間を介さずに」という言葉は、まさに「人間の意図」を隠蔽しているね。ということです。これもベタな幻想だね、ということです。




欲望の予測技術


グーグル好意の素朴論では、グーグルの優先順位は、いつも事後的に決まるということではないでしょうか。誰かが、HPをつくる。そこへのアクセスする人、リンクする人が現れ、その結果からのみ、グーグルの優先順位は決まっている。

そこにないのが、予測ですね。グーグルが目指すのは、人が求める情報を、いかに的確に提供するか、それによって、より多くの人が、グーグルのリピーターになることです。このときに、ただ結果のみの分析で良いのか。事後的だけだと時間差ができます。みながほんとうは求めているだろう「良い情報」なのに、まだ多くのが見つけ切れていないと、アクセス数が上がるまでに時間がかかるという、時間差ができてしまいます。このために、人々にとって、その情報が求められるかと予測し、予め優先順位を上げる。すなわち、情報の質の判断です。

たとえば、わかりやすいのか、個人のHPと企業のHPの差ですね。広告料によって、優先順位はかわるでしょうが、最近は映画などでも企業が、作品毎にHPが作られますが、このようなHPは、グーグルに広告費を払わなくても、登録も早く、優先順位も上位に設定されるでしょう。それに比べて、個人が自己紹介的なHPなどは、なかなか登録されません。

というような、予測と、情報の質の判断は行われています。いわば、この判断を「人間を介さず」にいかにプログラム化するか、ということが、開発のポイントかも、しれません。「欲望」の予測ですね。さらに、これを、プログラムでやっていても、その意図は人間が考えでプログラムとして組み込んだだけです。




なぜ機械は(場の)空気を読めないのか。


なぜ「欲望」の予測のプログラムは不可能なのかは、人工知能のパラドクスに繋がります。予測とは、事前にHPの「質」を判断するということですが、「なぜ機械に「質」は判断できないのか」は、「なぜ人工知能は不可能なのか。」そのものでしょう。俗に言う「フレーム問題」であり、機械にはコンテクスト(文脈)は読めないからですね。「機械は(場の)空気を読めないからです。」

問題は、「断絶」なのです。私と他者はどのようにも繋がっていないのです。他者が考えることは、私には絶対にわからないのです。その「断絶」を補完するために「社会」があるのです。そしてこの「社会」はまったくの「錯覚」なのです。だから他者が考えることをわかっているフリをしながら、僕たちは生きているのです。

ボクたちは社会なるもの、言語体系なるものがあるという錯覚により、行為は可能になっています。しかしこれはただの錯覚ではなく、僕達の「現実(リアリティ)」です。そしてこの「現実」を成り立たせ、社会なるものがあるように成り立たせているのは、とにかく僕達が他者を欲望するからです。

人工知能はこの「断絶」を越えられないのです。人工知能と私の間の断絶の前に、人工知能は、無限計算でフリーズするのです。人工知能には欲望がないからです。単に質の判断そのものは人間が考えて、その都度ただプログラム化されて、走るだけで、そこに自ら予測する「知能」はないのです。




知能があるかわからない


人工知能問題の本質は、このような「フレーム問題」ではなく、チューリングテスト問題のように、そこに知能があるということを、僕たちはどのように知るのか、ということです。これも「断絶」の問題です。私は他者がなにを考えているか、決してわからない、ということは、それが「他者」(知能をもった私以外の存在)であることを、知ることはできません。

コンピューターネットワークあるいは、「身体内の細胞と細胞」のような「複雑な相互関係」によって、仮に閉じた内部に高い知能があっても、それが人間とのコミュニケーションという外部へ開かれている、すなわち「断絶」を乗り越えられないと、ただの箱です。人間は「断絶」の乗り越えにおいて、そこに知能があると錯覚するのです。

すなわち、「断絶」がなければ、そこに知能があるかわからない。そして「断絶」あると、人工知能「断絶」を越えられない。故に、人工知能は存在しない」のですね。




「人間を介さず」という魔法の言葉


人間と人工知能の差は「断絶」の乗り越えです。「断絶」があり、その「断絶」という隙間を埋めようとする、それでも他者と繋がろうとする、そこに言語(社会)が生まれ、「私」が発生する。これが知能です。

そしてこの「断絶」こそがネットが爆発的に広がった原動力そのものです。そこに他者と繋がる可能性があることが欲望を想起しつづけるのです。それがボクが「ネットの欲望」あるいは「機械論の欲望」と言ったものの本質です。

ネットコミュニケーションは、「断絶」を越えて繋がる可能性、「断絶」が消失する可能性として欲望されます。そしてグーグルの「人間を介さず」というキーワードは、これとまったく同様な意味です。「人間を介さず」、すなわち「断絶が消失する」という欲望を想起する魔法の言葉なのですね。