Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2 「機械論の欲望」 

pikarrr2006-02-14

素朴な「ネットの欲望」


ウェブ進化論 梅田望夫ISBN:4480062858)は反響を呼んでいるようです。確かに面白いし、ネットでなにが起こっているかよくわかります。しかし「世界政府」など「危険なこと」も書いているにもかかわらずに、「素朴な好意論」が多いのが気になり、*1あえて引き続いて、少し後ろ向きな話をしてみたくなりました。

アメリカを中心とするネオコン(≒ネオリベラル)は、世界を民主主義化することが正義でありそのために武力もじさないということが言われていますが、それをグーグル的「民主主義」の中に見られると前述しました。それは、グーグルに見られる力の根底にネットの爆発的広がりという「ネットの欲望」にあり、それがネオリベラルの下支えにもなっているのではないか、ということです。そしてたとえば著者はこの本を楽観主義に書いたと言っていますが、この本へ「素朴な好意論」そのものが、「ネットの欲望」そのものではないでしょうか。




「機械論の欲望」


最近、人は豊かさの中で満たされ、欲望を失い動物化しているといわれていますが、そこには動物化したい欲望」を隠しているだけではないか、と以前ボクはいいました。これは「機械論の欲望」ともいってのではないでしょうか。

近代以降、「機械論」はなぜ回帰するのか、という話があります。人間は機械であるというときには、その時代の最先端のテクノロジーによって説明されます。たとえば古くは機械仕掛けの時計であり、あるいはオートメーションラインであり、最近ではコンピューターであり、ネットです。これは、テクノロジーの発展が、人間身体を拡張する方向で発達するためだと言われます。だから新しいテクノロジー進歩のたびに、機械論は回帰してくるのです。グーグル的な「世界征服」は回帰する「機械論の欲望」の新バージョンでしょう。

そこにあるのは私であるが私でない「人間」というフロンティア(無垢)を征服したい欲望です。心身論における「身体」のように「機械」に還元できない(コントロールできない)「心」を抑圧するように現れます。先の産業革命後の大量生産ライン化における抑圧では、労働者を(機械のように扱う)過剰労働と搾取の構造が生まれました。今回の「ネットの欲望」では、たとえば素朴な世界の民主主義化の「強要」や、あまりに空間を超越し急激に短絡しずぎる反動としてのナショナリズムの台頭と対立を生んでいます。

さらに還元したいという欲望と残余としての「心」の対立において、還元したいという欲望そのものが残余としての「心」であるという「己の尻尾を食う蛇」のパラドクスがあります。ボクは、グーグルの「テクノロジーで世界を語り尽くす」という欲望は、テクノロジーで語り尽くせないだろう、と前述しました。




「機械論の欲望」否定の不可能性


しかし機械論的資本主義に対抗するマルクス主義自体も機械論であったのは、「機械論の欲望」そのものを否定することの困難を表しているのではないでしょうか。「機械論の欲望」の根深さは、「無垢への欲望」として無意識に僕たちの「現実」を形成する次元あるだからでしょう。ジジェク的にいえば、「この幻想の向こうに本当の「現実」があるわけでなく、この幻想自体が「現実」そのものを形成している。」ということでしょう。

だからネオコンを批判することはできるが、素朴な「ネットへの欲望」そのものを批判することは困難ですし、「世界政府っていうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは全部グーグルで作ろう。それがグーグル開発陣に与えられているミッションなんだよね。」と言うときに、このグーグルの欲望自体を批判することは困難であり、これを推進することで生まれるだろう様々な軋轢をサーチするしかない、ということです。




「巨大化する『Google』にひそむ危険性」 

彼らがこんなことができるのは、Googleがインターフェースを掌握しているからだ。コンピューターを起動してインターネットに接続するとき、われわれの多くは、Googleが35年後に期限が切れるクッキーを送り込んできていることに気づいていない。そうしてGoogleは、われわれの現実にフィルターをかけ、美的価値観を規定し、われわれの記憶を照合してカタログ化し、さらにわれわれが引き出す情報を選択する。Google検索は集合的なロールシャッハテストになり、それがわれわれの世界観を形成し、われわれの現状と将来の姿に影響を及ぼすことになる。

『グーグル・ウォッチ』も運営するダニエル・ブラント氏は、問題はグーグル社が「公的な領域に対する(同社の)責任をまったく認識していない」ことだと考えている。「コンピューターおたくが支配し、リバタリアニズムは素晴らしい、政府がすることと言えば干渉と規制だけ。これがグーグル社の世界の見方だ」

巨大化する『Google』にひそむ危険性 http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20050629204.html

いやまあ、知ってる人は知ってることなんだけど、googleの検索では、デフォルトでSafeSearchという機能がOnになっていて、sexとかセックスとかfuckとか入れても、きわどい画像はブロックされて出てこないようになっている。この設定はなぜか日本語設定では変更できない、というか、そういうオプションがあること自体見えないようになっている。

Googleでエロ画像検索する際の裏ワザ  http://plaza.rakuten.co.jp/erokabu/diary/200602040003/

これは、まさに「環境管理権力」の問題です。たとえば検索ランキングはただリンクされた数で決まっているのではありません。そこに優先されるものと排除されるものがある、ということです。さらには、著作権の問題、プライバシーの問題など、グーグルの回りにはさまざまな軋轢が生まれています。

再度言えば、グーグルの欲望は素朴な僕たちの「ネットの欲望」が推進力にしています。そしてグーグルの欲望そのものは、様々な可能性を秘めたものです。だからなおさらグーグルの可能性に対してそこに潜む危険をサーチし続ける必要があるのでしょう。

そして本書は、そこを意図的に排除し、オプティミズム(楽天主義)」に素朴な「ネットの欲望」へ偏向しているという一つの思想書であるから素朴に「面白い」のです。
*2