ラカンとデリダとボクと その1
「クッションの綴じ目」=偶有性から単独性への転倒、まなざしの快楽
ボクは「偶有性から単独性への転倒に神性は宿る」といった。たとえば、ある女性を好きになる。そして彼女は僕の女神になる。このときになぜその女性が好きになったのかの理由はたまたま(「偶有的」)としか、言えない。しかし好きになったのであり、このたまたまであることの「不安」を隠蔽するために、彼女は僕の女神だという「幻想」を見るのだ。
そして彼女は僕の女神であるのは、みなが彼女を「まなざし」ているからだ。そしてみなにまなざされる彼女にまなざされる僕は、「この私」という「単独性」を手に入れる。
これは、ラカンの「クッションの綴じ目」理論で説明できる。シニフィアンの連鎖の中で、遡及的に「クッションの綴じ目」として、意味が与えられる。その決定の不安において、幻想/S◇aは生まれる。これは主体の物語である。斜線を引かれた主体/Sは、象徴界Aに参入し、「クッションの綴じ目」において、他者の中で主体S(A)を獲得し、象徴的同一性I(A)を果たす。
ボクの言う「まなざし」とは「他者(象徴界)」であり、象徴界の固定された位置によって、意味をもつ。それは象徴的同一性I(A)によって、私の意味を獲得する。
対象a、享楽、欲動=無垢への欲望、「外部の想定によって内部は強化される」、他者からの呼び声
しかしラカンにおいてこれで終了しない。そこに「享楽」の次元へつなげる。享楽において、「他者(象徴界)」は欠けている。S(/A)。まさにこの欠如がこの欲望自体を加速させ、幻想を強化するのだ。
すなわち、彼女は僕の女神だというときに、そこにある欠如、たとえば彼女はわがままであるなどの欠点であるとか、この恋愛に親の反対、ライバルの出現などがあるから、より彼女への愛は深まり、欲望は加速されるのだ。これはボクのいう「外部の想定によって内部は強化される」につながる。外部(内部の欠如)を想定することによって、内部は強化される。僕と彼女という内部は強化される。
これは障害があるほど恋愛は燃えるというラブストーリーの定石につながる。欲望は禁止そのものに向かう、享楽を隠すように、欲望の原因である対象aは現れる。この対象aがボクがいう「無垢」であり、それは禁止されることによって、より「輝く」のだ。
そしてこの欠如をボクは「他者からの呼び声」と呼ぶ。この意味を、幻想を破り、本当に求めているものは、それか、問い続ける。それは幻想だと問い続ける欲動である。
脱構築、「己の欲望に譲歩するな」=「単独性から偶有性の逆転(リバース)」」「芸術家の知」
このような欲望の構造において、ジジェクは二つの意味で解体することを示唆する。
だからこそ「イデオロギー批判」には二つのたがいに相補的な手続きがあるというふうにいえる。
第一は言語的手続きであり、イデオロギー的テクストの「症候的読解」である。それはイデオロギー的テクストの意味の無自覚的経験を「脱構築」する。すなわち、あるイデオロギー的領域が、雑多な「浮遊するシニフィアン」のモンタージュの、つなりある「結束点」の介入によるそれらのシニフィアンの全体化の、結果であることを示す。
もう一方の手続きは享楽の核を抽出し、あるイデオロギーがいかにして、意味の領域を越えて、だが同時にそれに内在的に、空想の中に構造化されたイデオロギー的享楽を包含し、操作し、生産するか、分節表現することを目標とする。
イデオロギーの崇高な対象 スラヴォイ・ジジェク P195 (ISBN:4309242332)
一つは、ボクがいうところの、「単独性から偶有性の逆転(リバース)」である。これはデリダの脱構築を意味する。その他の単独性の可能性の次元を開くのである。たとえば、その他の女性たちとの交流によって、彼女へ思いは冷めるのかもしれない。彼女である必要などない、ということだ。
しかしそれだけでは不十分である。もう一つは、なにがこの欲望を想起する享楽という欠如を構成しているのか、と問うことである。そこには享楽の核がある。そこでは、「その他の女性たちと交流してみろ。彼女はきみが求める完全ではないことがわかるだろう。彼女よりも理想の、完璧な女性はいくらでもいる。」といわれても、その彼女否定そのものが、そして彼女が完璧でない欠如そのものが、享楽の核となり、彼女への思いと強めているのである。欠如という外部点があることによって、内部としての「ボクと彼女」がより強化される。
だからただ脱構築するだけでは、ダメなのだ。欠如の指摘そのものが、内部の強化に繋がるのだ。だからその「享楽の核」という外部点の存在を指摘する必要がある。これはラカンの「己の欲望に譲歩するな」という倫理テーゼにつながる。ボクはこれを「芸術家の知」と呼んだ。幻想の向こうの享楽へ向けて問い続ける。
「存在論的、郵便的」(ISBN:4104262013)で東浩紀は脱構築を、ゲーテル的脱構築とデリダ的脱構築に分けている。そして先の脱構築、「その他の単独性の可能性の次元を開く」のがデリダ的脱構築である。それに対して、「幻想の向こうの享楽へ向けて問い続ける」ことは、ゲーテル的脱構築に対応するだろう。象徴界の欠如、言語体系の不完全性、すなわち享楽の核を指摘する。そしてこれをデリダは否定神学と呼んだ。ここでまさにラカンとデリダは裏表の関係にあることがわかる。
たとえば東の「存在論的、郵便的」物語によれば、デリダ(そして柄谷)はゲーテル的脱構築は否定神学であり、ゲーテル的脱構築からデリダ的脱構築へ向かう。デリダ的脱構築とは誤配可能性の転倒(散種の多義性化)を暴露する。
しかしこの構造そのものが、ずでにラカンに見られる。ラカンでも「転倒」は二重構造になっている。まずはシニフィアンの連鎖から、偶然に「クッションの綴じ目」が決定する。これはデリダ的脱構築、誤配可能性の転倒(散種の多義性化)に対応する。そしてシニフィアンの束である象徴界に穴があること。これはゲーテル的脱構築に対応する。
デリダは、この象徴界に穴、あるいは自らの前期(ゲーテル的脱構築)を否定神学として批判するのだ。そして後期においてデリダ的脱構築、誤配可能性の転倒(散種の多義性化)を思考した。これが東の物語である。
しかしラカンにはすでにデリダ的脱構築的な「クッションの綴じ目」論がある。あるものの意味(多義性)はシニフィアンの連鎖から「偶有的」にきまる。これは、「散種の多義性化」的である。
しかしデリダが、「誤配可能性」、「幽霊」、「郵便」的ということには、シニフィアンの連鎖以前、すなわちエクリチュールの反復可能性、誤配可能性である。デリダ的脱構築とは、すべての象徴界的機能に誤配を投入する方策である。たとえば僕が彼女を好きになった。彼女は僕の女神だ。というときには、女神であるという空想は彼女でなければならなかったということを補強する。その解体は、彼女でなければならなかったのか、である。
しかしデリダ的脱構築の解体はさらに深度を深める。彼女は誰であるか、ということではなく、彼女は誰かでなければならないのか、という懐疑、すなわち恋愛そのものへの懐疑である。「恋愛」というものが一つの象徴界のシニフィアンである。
これはまたラカンの「性関係は存在いない」に繋がる。象徴界の所作は全て幻想である。しかし人間は恋愛をすることから逃れられない。これに対して、デリダは恋愛しない可能性もある。というか、恋愛というものがなんであるか、決定できない。ここでラカンの言説とデリダの言説の言っていることはそれほど違うだろうか。
まさにラカンが「手紙は必ず宛先に届く」というとき、すなわち象徴界の完璧な作動を保証するとき、そこにあるアイロニーは当然、誤配可能性を含んでいる。世界は誤配に満ちている、完全なコミュニケーションなど存在しない。しかし僕たちはコミュニケーションが可能であるように振る舞っている、社会(象徴界)という、あるいは言語体系という明確なものがあるように振る舞っている。この幻想は虚構でなく、僕たちの現実(リアリティ)そのものだ、ということである。だからデリダが「手紙は宛先に届かないことがある」という指摘は、「ネタにマジレス格好悪い」のである。これをボクは「デリダも必ず恋をする」と呼ぶ。
このようなラカンは人間が成り立っている構造を指摘し、デリダはいわば、人間が隠蔽していることを指摘するという関係になりたっている。すなわちネタレベルのラカンと、マジレベルのデリダという裏表の関係にあるのだ。
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