なぜ童貞オタクとヤリチンは似た者なのか

pikarrr2006-04-20

想像関係と象徴関係


人間関係は、想像関係と象徴関係のバランスでできている。想像関係とは一対一の関係であり、互いに欲望しあうことで、愛着が増す、相手がかけがえのない存在になる。それによって自分もかけがえのない存在になる、ということだ。このような関係は「転移」と呼ばれ、上手くいっているときは愛の関係であるが、バランスが崩れると憎しみへと容易に転じる。

それを抑制するために、象徴関係がある。象徴関係とは、社会的な立場である。親と子、先生と生徒、上司と部下など。これらのように社会的な決まりによって、人間関係を規定する。これによって、他者への過剰な欲望は抑制される。たとえば、深く愛し合う男女にもこのような抑制が働いている。男はこうあれ、女はこうあれ、というと社会的な決まりがあり、恋愛は進む。




なぜ「空気を読む」のか


ポストモダン的には現代はこのような象徴関係が揺らいでいる。多様な価値観の中で、社会的な立場はこうあるべきだという決まりが揺らいでいる。そして社会の流動性が増し、様々な人が様々な場面で出会う。そこで、出会った人たちの関係は宙づりになる。

ネットはそのような宙づりな場のモデルのようだ。匿名の場としてのネット上には、前もった象徴関係はない。その場、その場で作らなければならない。だから他者へコミュニケーションは慎重に行われなかればならない。可能性としてのネットの場が閉鎖的であるのは、このためである。そして無神経は接触は炎上を生む。炎上は荒らしではなく、マジに関係しようとする直接的すぎる想像関係から生まれる。

実社会ではもっとデリケートであるかもしれない。簡単に炎上に巻き込まれるわけにはいかない。だから他者との関係の場を作らなければならない。流動性の高い社会では、その場その場で関係を構築することが強いられる。そこには力関係の駆け引きがある。それが「空気を読む」ということだ。特に日本人はハイコンテクストな社会といわれる。だからなおさら、ローコンテクストな社会にくらべ、「象徴関係のくずれ」に敏感であり、その回復が試みられる。

「象徴関係のくずれ」は場を乱す反社会ではない。不良は反社会という象徴的位置を保持する。そのときの場の空気など関係あるか!は一つの立場の決定である。象徴関係のくずれはより宙吊りな状態である。だからその場で秩序を構築しなければならない。

さらに2ちゃんねるでは、複雑に場の秩序を構築している。「ネットは匿名の場であり、場の秩序を構築することが難しい」ということによって、秩序が形成している。だから真面目に場の秩序を構築しようヤツは、「ネタにマジレスかっこわるい」のである。ネタコミュニケーションとして、2ちゃんねるのスタイルは炎上からの回避としての一方策である。




リスク回避としての消費関係


特に実社会での緊張関係は負荷である。そのために、儀礼的無関心という秩序が生まれる。礼儀ある他者回避であり、コンビニ、ファーストフード、ファミレスなどは、そのような儀礼を売り物にしている。

またこのような他者回避は、現代におけるリスク回避であるともいえる。現代のような価値が多様で、流動的な社会では、強く関係に拘束されることは危険である。たとえば純愛などとしてのめり込んでも、いつ他者に裏切られるかわからない。多くの選択に開かれ続ける姿勢がリスク回避である。

このために人間関係は「消費関係」となる。消費関係とは他者の欲望を欲望するのではなく、他者を、社会的な他者の欲望を欲望するための道具とする関係である。

たとえば処女に価値があるとされるのは、処女が消費されると価値が落ちるという消費材だからだ。これは童貞は性体験することで価値が上がることと対をなす。童貞と処女の関係は消費する側とされる道具という男尊女卑であり、男性間のよりよい女性を手に入れる競争ががある。男性社会の他者(男性)の欲望を欲望する競争であり、女性はそのための道具である。




童貞オタクとヤリチンは愛する女性に出会わないことを望む


現代の他者回避、リスク回避傾向の中では、現前の他者の欲望でなく、社会的な流行(どこかの他者の欲望)を欲望することになる。すなわち本質的には関係は消費関係になる。それがアイドルや二次元な偶像にむかうことは自然なことである。

オタクには彼女ができないと言われる。しかし彼らはもてないだけでなく、現前する女性を回避、そしてリスク回避でもある。そして乗り換え可能な女性として偶像を消費する。しかしこのような意味ではナンパなヤリチンも同様である。彼らは乗り換え可能なように、特定に女性に固執せずに、多数の女性を消費することで、リスク回避をしている、といえる。

ナンパのテーゼは「ナンパにひっかからないような女性をさがしてナンパは行われる」というものだ。しかしさらには、「(愛に囚われないよう)ナンパにひっかからないような女性に出会いわないことを望みながら、ナンパは行われる」ということだろう。これはまさにオタクの心理でもあるのではないだろうか。この決して「出会わない女性」の究極は決して現前しない「偶像」であり、二次元である。