なぜかわいい女性を見ると気持ちいいのか

pikarrr2006-04-21

白いキャンパスについた「汚れたシミ」


科学的に、美形とは平均的な顔だといわれる。多くの人の顔をコラージュすると美形になるらしい。この美形とはマネキンのような無個性な顔である。人々を引きつける魅力的な顔とはこのような正しさ(美形)からのわずかなズレによって生まれる。そのズレは、白いキャンパスについた小さな「汚れたシミ」のようなものである。

人は内部から湧き上がる性欲動(リビドー)を持っている。人が社会の中で生きていく中で、リビドーを抑圧する。それ故にリビドーは内圧として高まる。社会的な規則、立場に強く縛られると、内圧が高まり、強いストレスとなり、どこからか解消されることが望まれる。

女性は、性的なものが社会的に抑圧され、禁止された存在である。女性が、それもかわいい女性が性的であることは、禁止されている。そのような禁止されたはずの「かわいい女性」がミニスカートをはき、肌をあらわにする、あるいは制服という社会的な正しさから覗いてた肌は、「汚れたシミ」である。このような正しさについた「汚れたシミ」は性的なものを想起させ、僕たちは興奮する。

そこで美人のテーゼが現れる。「僕たちが美人へ興奮するのは、その女性が美しいからではなく、美しいにもかかわらず僕たちと同じようにいやらしいからである。」 その性的なものは、美人という白いキャンパスについた小さな「汚れたシミ」であり、そこから性的なものは妄想され、人々は興奮し、リビドーが解消される。かわいい女性を見ることが一つの刺激であり、快感であるのはそのためである。




なぜ長澤まさみはかわいいのか?


AVビデオで行われていることは、毎回たいしてかわらないワンパターンである。しかしそれでも欲望されるのは、新たなかわいい女優が登場することで、「この子はそんなやらしいことをしない」という新たな禁止が空想されるからである。そしてその女優が本数を重ねる毎に、段々内容は過激になり、「この子はもともと淫乱だったのだ」「無垢」は消費される。そして次の女優の空想に向かう。

「汚れたシミ」はリビドーを解消するための社会という抑圧に開いた通路である。しかしそこになにかがあるわけではない。だからほんとうに「かわいい女性」を手に入れ、セックスできても、リビドーは完全に充足されない。

「汚れたシミ」が生み出す空想は、終わることがなく湧き上がるリビドーを解消するために生み出される。もしなにもなければ、僕たちのリビドーは解消されない。その絶望を隠すために、通路としての空想(ファンタジー)はうまれる。そして「かわいい女性」という空想は作られつづけるのだ。

なぜ長澤まさみはかわいいのか?「正しい」ようでなにかがおかしいのである。なにかそこにあってはならない「汚れたシミ」かあるのだ。ボクは小学生女子の少年のような体系という禁止されたロリ性が隠されているのではないかと、想像した。ロリコンは無邪気という正しい幼児について、シミとしての色気への欲望である。幼児を性能対象として考えることは禁止されている。故に欲望される。しかしこれは決して言語化しきれない空想である。新たな「かわいい女性」という空想である。