続  オタクであることはなぜ恥ずかしいのか その1

pikarrr2006-05-25

kagami
「 オタクであることはなぜ恥ずかしいのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060524の構造分析についてはその通りだと思いますが、オタクアニメの本質的なものがセカイ系というのは、作品ごとのケースバイケースではないでしょうか。確かにセカイ系のアニメも多いのは事実ですが、AIRなどは明らかにセカイ系とは対極にあるものですし(前世での罪の責任を取って死ぬ)、今期のアニメでも、ガーゴイル(門番としての義務と責任を果たす)ゼーガペイン(幻の世界であることを受け入れた上でのその世界への責任の取り方)西の善き魔女(社会秩序と個人倫理の対立)彩雲国物語ノーブレス・オブリージュ獣王星(サバイバルへの意志)など、セカイ系でくくれないオタクアニメは山ほどあるかと思います。ただ、セカイ系がオタクに人気があるのは、確かでしょうね…。

pikarrr
ボクは「オタク」ではないので、語るほどに詳しくないことを言っておかないといけませんね。さらにボクがセカイ系というのは、実際のオタクの方よりも大括りであるかもしれません。

本文で足りなかったのは、(ボクが言う)セカイ系そのものの特徴が「従来の物語」にある装飾の排除と、セカイの中心への短絡です。だからハルヒが装飾の排除であるというときには、「さらに」装飾の排除が進んだと言うことであり、これは、最近のアニメの一つの進化傾向でしょう。ボクが注目するのは、末端を排除しつつ、「リアリティ」を産み続けるという傾向のおもしろさです。

それはある意味でオタクの「恥ずかしさ」純化しているのかもしれません。極論すると、物語はどうでもよく、「いかに恥ずかしいか」にしか本質がないのかもしれない。話がそれましたか・・・(笑)

kagami
確かにハルヒだけではなくネギまなど、現実逃避的恥ずかしさがありますね。ただ、多くのユーザーはそこまで考えずに、全く屈託なく享受している感じなので、東浩紀先生が云うところの動物化とそれに伴うDB的消費も、一因かなと思います。恥ずかしさというのは、極めて人間的な、世界と自己との関係を倫理的に自覚する意識から生まれるもので、動物化傾向とは逆の位相を持っていますので…。ある程度の意識的なオタクにおいては、pikarrrさんの仰る通りであると思います。

pikarrr
ボクは、デリダよりラカン、東より斉藤の、オタク動物化否定論者です。社会に動物化傾向=アイロニーの消失した直接的快感へ向かう傾向はあると思いますが、普通一般的にみると、どうみてもオタクは動物化しているというよりも、人間くさい人々だと思いますよ(笑)。オタクの中で動物化という言葉が流通したのは、自分自身をもてあます動物化したい欲望」の強さからではないでしょうか、というのがボクが説です。まあこれについてはもっと複雑で話が長くなるのでこれ以上議論するつもちはないのですが。

ボクがこだわる「リアリティ」とは無意識の問題です。オタクはハルヒになんらかの「リアリティ」を感じるから惹かれる。そして「リアリティ」はいつも「無意識」にあります。誰も惹かれるとき、楽しむときに理由などありません。そしてオタクのリアリティをささえる本質は(無意識の)「恥ずかしさ」ではないか、と思ったのです。オタクでもないボクがここまで語るのもどうかとは思いますが(笑)

risuga
こんにちは。興味深く拝見しました。『オタク系の恥ずかしさは都合の良い現実逃避的である所為』という前半部についてですが、「おばさん」の熱中する「純愛」コンテンツも「都合の良い現実逃避性」については同レベルのように思えるのですが、如何でしょうか?

その上でオタク系は恥ずかしく、純愛系がそうでないとするなら、それは「恥ずかしさ」なるものの認識や、「何を“恥ずかしい”ことにしたいか」という人々の欲求の問題と関わってきますので、「なぜオタクは〜か」型の記述で語ってしまうと物足りなさを感じてしまいます。

むしろ、『オタクのリアリティをささえる本質は(無意識の)「恥ずかしさ」』というコメントで書かれているお考えの方が興味深いです。また機会があれば「恥ずかしさ」について別のエントリで語って頂けると嬉しいです(←図々しくてすいません(笑)。

pikarrr
risugaさんはじめまして。kagamiさんにも指摘されましたが、オタク=セカイ系、オタク=現実逃避などは、多様性に欠ける短絡すぎる分析かと思います。ボクとしてはこのブログの流れの中で語っているというところもあって、前後も含めて見てもらえると助かるという、都合の良い思いもあります。 たとえば指摘の韓流純愛好きおばさんなど、「おばさんはなぜ「純愛」に興奮するのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060429、その他オタク関連は「オタク」はなぜもっとも健全な人々なのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060428などなど。

これらは分散的で、必ず体系化して語られているわけではないですが、稚拙ですが精神分析を元にしています。一つは社会規範がベースになります。だからオタクはマイナスイメージで、純愛はプラスイメージになります。そのような意味で、「オタクは恥ずかしい」「オタク」はなぜもっとも健全な人々だ」は同じ意味なのです。

長谷部悠作
risugaさんが仰る「おばさん達が熱中する純愛コンテンツもまた、現実逃避ではないか」という指摘は、個人的にもとても正しいと思うのですが、現実逃避というものは程度の差こそあっても、大衆文化には必ず根を下ろしているものだと思います。そしてそういった純愛物語がオタクのそれと程度問題としてどれほど違うのかといえば、それほど変わりがないと思います。少なくとも、pikarrrさんが「末端」と仰るようなドラマ性の点においては。ですが、オタクというものは表面的に露骨ですからね。子供向け表現がそのまま一部の大人たちのものとなる不格好さを、オタクは自覚的にならざるを得ません。この原罪は、オタク固有の原理です(一部の批評家達がこぞってオタクを取上げるのは、この原罪にオタクが意識的だからでしょう)。

kagamiさんはAIRセカイ系と対極を成すと仰られているようですが、むしろAIRこそ過剰な自意識を根底に据えていると思いますね。ある女の子に対して価値を与えるために、健気であるとか惨めであるとか、同情を引くための起因を次々にドラマは与えていきます。そして歴史と個人の対立も、結果的には歴史の大仰さを個人に還元しているだけです。僕は、あれほどまでに個人を神格化した作品を知りません。そしてAIRは一つの到達点でもあり、オタクにとってはまさにpikarrrさんが仰る「恥」の標榜だと思われます。

ですから「真面目(過剰)」であることの胡散臭さ(=装飾の排除)が、ハルヒやネギマのような総パロディー化(=開き直り)を反り返って生み出したと思うのです。これを動物化だのデータベース化だのの傾向と捉えるならばそれもいいでしょうが、pikarrrさんが仰るようにセカイの中心への希求はまだまだ根強いと思いますね。というか、オタクというものはそれが中心原理にあると思いますから、根本的にセカイ系を解体しつくすことは不可能だと思います。オタクは大人である自分を殺すことは出来ません。ハルヒのような開き直ったアニメたちはアンパンマン的なユートピアに段々と近づいていくでしょう。ここで「敢えて」そういった子供向けの無邪気な表現に自分達が埋没することを意識しないことは不可能じゃないですか?とくにAIRのような作品を通過したオタク達にとっては。真面目であることの胡散臭さが生まれた事だって、もともとは自己意識(=恥)が起因なんですから。ですから、ハルヒのようなアニメは単なる反動でしかないと思いますね。また過剰な物語が現れ、反動で表面的に開き直った計画的商業アニメが人気を得て、また過剰な物語が現れ、の繰り返しでしょう。

ストーリーテラーは常に正義であり、愛玩の対象であるキャラクター達は常に視聴者の手のひらの上で踊っているのです。彼女達は悪ではありません。悪はセカイに対する抵抗勢力ですが、それがないからこそオタク向け表現は成立するのだと思います。視聴者は常にセカイを支配し続けます。この構図が根本的にある限り、読者はストーリーテラーと共にセカイに短絡し続けます。世に言われるセカイ系は、それが表面的にナイーブさを表すので拒絶されやすい、それだけのことです。ナイーブさは、ことさらセカイ系の本質を成してはいないと思います。

pikarrr
長谷部悠作さんおひさしぶりです。補完した説明ありがとうございます。さらにボクなりに、ハルヒ論?を展開したいと思います。ハルヒの末端の排除とは「いまさら末端を取り繕うのも嘘くさいな」ということ「リアリティ」です。

ボクの好きな例にマルセル・デュシャン「泉」があります。美術作品といってただの便器をおく。これは美術とは魂だ、美の追究だ、などの「末端」を排除し、美術館というシチュエーションが「美術とはなか」を支えていることを暴露します。

ここにまもう一つ意味があって、「出オチ」であるということです。「美術作品といってただの便器をおく。」ことで完結します。もはや作品の鑑賞する深みなどなにもありません。これは「美術作品のイベント化」です。現代芸術は「出オチ」化、イベント化に向かいます。 TV番組のバラエティ化、街のイベント化、劇場化などもこの流れにあります。現代のリアリティはじっくり物語るにリアリティがもてず、ダイナミズムに求められています。(リアリティの「イベント化」は、こちらを参照。「なぜ「空気を乗りこなせ!(コンテクストサーフィン)」なのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060511

ハルヒの魅力のひとつもこのようなイベント化傾向にあるように思います。じっくり物語るよりも何が起こるかという楽しみ方。ネット上の「主題歌をオリコンの上位にしよう」など、ネットイベントもイベント化のリンクといえるかもしれません。(ハルヒイベント説?はここでも語られていますね。「祭り型コンテンツとしての『涼宮ハルヒの憂鬱』」http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060523/p3

このようなイベント化で成功したのが、古くは「おにゃん子クラブ」、最近ではモーニング娘。ですね。あれらはアイドルのパロディであり、末端の物語を排除し、シチュエーション重視のイベント化です。モーニング娘。2ちゃんねる(の「モー板」の活況)とリンクした最初でしょうか。

ボクはこのような現代のイベント化傾向の中でも、マンガ、アニメなどはいまだにきちんと物語ることでリアリティを作り出せる希有な分野だと思っています。その意味でも「オタクは恥ずかしい」「オタク」はなぜもっとも健全な人々だ」と思っています。そしてハルヒイベントを乗り越えて、今後も「恥ずかしい」濃密な物語が作られ続けるのだと思います。

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*1:画像元 http://pics.livedoor.com/u/triangle_sanctuary/573371

*2:本内容は「 オタクであることはなぜ恥ずかしいのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060524のコメント欄からの転用です。