続  オタクであることはなぜ恥ずかしいのか その2

pikarrr2006-05-27

pikarrr
マルセル・デュシャン「泉」はパロディ(アイロニー)です。これはとてもポストモダン的な傾向で、ボクは「拡散」と呼びます。ボクが「ボクはこのような現代のイベント化傾向の中でも、マンガ、アニメなどはいまだにきちんと物語ることでリアリティを作り出せる希有な分野だと思っています。その意味でも「オタクは恥ずかしい」「オタク」はなぜもっとも健全な人々だ」と思っています。」というときには、発散を再び「収束」させる力がある。その力の元が「恥ずかしさ」であるということです。何でもありと「恥ずかしさ」が発散する中で、オタクにはまだ「恥ずかしさ」がある、と言う意味で、「健全」だと思うのです。

そしてこの「拡散」「収束」は一つのサイクルです。何度も繰り返されると「拡散」し、様式化、イベント化するが、またどこかで「収束」がおこる。それが、生のダイナミズムだと思っています。だからまたハルヒイベントを乗り越えて、今後も「恥ずかしい」濃密な物語が作られ続けるのだ」と思います。

長谷部悠作
一つお尋ねしたいのですが、今までオタク表現の末端に恥ずかしさを感じる何かがあったのだとして、それが排除された後のハルヒは、オタクにとって恥ずかしくないのでしょうか? 拡散と収束が働くのならば、何故むしろオタク的な記号を彼らは拒まないのでしょうか?

pikarrr
ハルヒもパロディ(アイロニー)です。パロディ(アイロニー)とは、繰り返され、飽きられた行為に 自覚的になり、離れてその行為を眺めることで、新たなリアリティを感ることです。これがボクの言う、「リアリティ」の再生産です。「オレたちってこんなに恥ずかしいんだ」と恥ずかさを離れてみて、再度楽しむ「恥ずかしさ」です。ボクはこれを「自虐的」と呼びました。しかしこの方法論を進め、パロディのパロディ・・・・と繰り返すと、「恥ずかしさ」そのものは薄まり、当たり前になる。だからどこかで「収束」、新たな「恥ずかしさ」を生む力がなければ、その表現形態は発散し、衰退してしまいます。

たとえば少し前なら、ロックミュージックは反社会的に、猥雑で、「恥ずかしい」ものでしたが、現在、ジミヘンでさえCMソングとして心地よく流れています。異論があるかもしれませんが、ロックミュージックは表現形態として衰退しています。ハルヒが心地よいものになっても、オタクはまだ一般人?がみると、「薄気味悪い」「気持ち悪い」「オタクってキモい」という作品を作り続けているのではないでしょうか。

再度言うと、ほんとにボクはオタクではないのです。はっきりいってハルヒはギリギリで、他のものは正直気持ちが悪いのです。たとえばボクはオタクとともにあげる例が女子高生です。彼女たちのファッションは(最近は減りましたが、)動物の脱皮のようなルーズ、不自然なミニスカート、過剰なメイクなど気持ちが悪い、「恥ずかしい」ですね」(笑)だからこそ、力を感じ、魅力を感じる。ということです。

ボクは「オタク」ではないので、語るほどに詳しくない、といいながら語りすぎていますね。(笑)ボクの独断的なオタク論はこのあたりでひとまず終わりにさせていただきます。

長谷部悠作
大丈夫です、僕なんかはハルヒ見たことさえないです(笑)昔その手のものをやったことがありますが、今現在やってるアニメなんて一本も知らないですし。一応pikarrrさんの発言や周囲の反応を見て、その中で内容を勝手に憶測してますから間違っていたらごめんなさい。

パロディ化はわかるのですが、恥ずかしさとは何なのかよくわからないです。新しいリアリティが立ち上がると言っておられますが、いまいちイメージが出来ません……。

再三名前があがっていたネギまという作品は、30人以上の女の子が出てきて、魔法使いの先生と一緒にあらゆる学園ものイベントをこなしながら、悪魔だの鬼だのロボットだの裏の組織だのをヒロイン達と退治したりするのです。もうこれ以上ないほどバカバカしくて薄気味悪い内容なので、当初、僕は何かしらの考察の対象となりえると考えました。だってここまできたら間違いなく確信犯ですから(笑)ですが結局、それらのバカバカしさがどこにも行き着かないんです。単にどこまでもバカバカしいだけなんですね。パロディが働いた前後で、結局同じオタク表現があるだけであって、何かが消滅するわけでも何かが生まれるわけでもない。

そして確信犯と考えたこと事態が、無意味だったのではないかとも思えてきました。実際漫画板を覗いてみると、単純にストーリーがいいとか言ってる人がほとんどなんですね。ありえねーとか思いましたが、もともとオタクはセカイに繋がる都合のいい世界さえ次々に渡してくれたら、それだけで満足なのではないかと思うのです。ですから、何処まで言ってもオタク表現は根源的にはセカイ系であり続けるのではないかと思うのです。

オタク達は、恥かしがりたがっているのでしょうか。恥というタームを仲間うちと共有することで、繋がりを求めているというのならわからなくもないかなと思いますが、しかしロックと違ってそれらが政治的な言明になるわけじゃありません。外に対して意識のない恥に、ことさらまとまりの意識があるのでしょうか。

pikarrr
「オタク達は、恥かしがりたがっているのか。」たしかにまさにこれが確信ですね。(笑)しかしオタクが「俺たちは恥ずかしがってなどいないぞ!」と言おうと、ボクは「オタクは恥ずかしがっている」といいます。

先にも書きましたが、この恥ずかしがっているという基準は「一般的な社会」にあります。たとえば電車男エルメスにオタクであることを隠した次元、あるいはオタクの父母が息子のオタク傾向を見る次元です。

「一般的な社会」基準は確かに崩れかかり、価値は小さなコミュニティ(オタク、ギャル、2ちゃんねる・・・)で形成されています。だからオタクの価値はオタク内で活性化され、そこでは「恥ずかしがってないどいない」でしょう。それでもこの「一般的な社会」の次元はオタクの中(無意識)に作用し、抑圧しています。それがボクが言う「恥ずかしさ」です。

長谷部悠作
うーん、その無意識の「恥かしさ」がどういう作用を及ぼしうるのかがわからないのですね。パロディはそれを浮き彫りにしてみせる機能なのでしょうか?

自分達が辺縁に立っていることを意識することで、彼らの結束が硬くなるのですか?それはわかるんですよ。しかし作品単体の力としてどうありえるのかがわかりませんねぇ。

pikarrr
簡単にいえば、「抑圧されることこそ力の源泉である。」ということです。そして抑圧は力の方向性さえきめます。「「恥かしさ」から恥ずかしくないようにより恥ずかしい方へ向かう。」ということです。

先にも上げましたが、この当たりも参照してもらえるとありがたいです。
リビドーを解消するために、たとえばゲームなど様々な刺激が作られている。しかしそう簡単ではない。リビドーの解消としての欲望の対象は抑圧への反発として見出される。自由は抑圧を解体し欲望することを困難にし、リビドーの解消の通路を塞ぐ。

予測されたものは欲望されない。ズレだところに欲望は感染する。ズレとは白いキャンパスについた小さな「汚れたシミ」のようなものである。ズレはリビドーを解消するための社会という抑圧に開いた通路である。そこになにもないにも関わらず、禁止されているものを欲望する、さらにはみなが欲望するものを欲望するというように、社会においてズレとしての性倒錯対象は多様にあらわる。だから広告的マーケティングは必ず失敗する。逆説的であるが、「閉塞」を回避するために、いかに「抑圧」を見出すかである。

そしてこのような欲望の対象としての「おもしろさ」を作り出す天才は「オタク」ではないだろうか。彼らは何故に、欲望の対象を作り出しつづけることができるのだろうか。彼らは社会的には、マイナスで語れる。その存在は社会の「汚れたシミ」である。

もてないなど、コミュニケーションがヘタな人々であったと、彼らは自らを抑圧を作り出すことに成功している。たとえば女性にもてないなどの抑圧が歪な禁止された女性という空想を生みだしつづけ、リビドー解消の通路としての多様な性倒錯対象を生み出し続けている。宮崎努などのイメージで病んだ人々として語られることが多いが、そのキモさを生み出す創造性において彼らは現代でもっとも健全な人々であるかもしれない。

「オタク」はなぜもっとも健全な人々なのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060428

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*1:画像元 http://pics.livedoor.com/u/triangle_sanctuary/573342

*2:本内容は「[議論]続オタクであることはなぜ恥ずかしいのかその1 」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060525のコメント欄からの転用です。