若者がゲームからネットへ向かうのはゲームの不確実性よりも「他者」の不確実性の方がおもしろいからだ。

pikarrr2006-08-12

自由だけどマニュアルの外へでることが難しくなっている


「ボクたちがマクドナルドへいくのは食事に時間を割くよりも「重要なこと」があるからだ。」*1で言ったのは、ボクたちは自由なのに、なぜ閉塞するのか、ということだ。自由なようで、実はマニュアル化によって拘束されていると。しかしそれは、ビックブラザーがボクたちに罠を仕掛けているということではなく、ボクたち自身がそれを望んでいる。だって豊かな方がよいし、便利な方がよいから。そうすれば、自分のやりたい余裕ができるから。

自分のやりたいようにやるために、マニュアルに従う。しかしやりたいようにやるとはマニュアルの外にあるのだから、マニュアルに従うほど、マニュアルの外は遠のいていく。そしてマニュアルの外を目指すことが形骸化する。

自由だけど、マニュアルの外にでることは難しくなっている。成熟した資本主義社会ってそういうものではないのかとということだ。ここでいう自由とはマニュアル化された「内部の自由」であり、本当の自由とは、マニュアルの外にでる「不自由」であると言った。




若者がゲームからネット、ケータイへ向かっている

若年層のゲーム機離れ顕著に 利用時間の減少分はネットとケータイへ


同調査ではインターネット利用者を対象に、「テレビ」「新聞」「雑誌」「フリーペーパー」「ラジオ」「インターネット」「通話・メール以外の携帯電話利用」「ゲーム機」の8媒体について、利用時間の1年間の増減を聞いた。

調査の結果、利用時間が「増えた」の回答が全体の20%を超えたのは「インターネット」の42.4%のみで、「通話・メール以外の携帯電話利用」の19.5%が続いた。一方、「減った」が同20%を超えたのは「ゲーム機」の42.6%がトップで、以下「雑誌」(31.8%)、「テレビ」(28.2%)「ラジオ」(22.6%)と続いた。既存媒体の利用時間の減少分が、インターネットと携帯電話に流れた形だ。

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2292299/detail?rd

若者がゲームからネット、ケータイへ向かっている。というこの記事はおもしろい。ゲームはどんどん性能があがり、リアリティ、臨場感が増しているのに、それでも、テキストベースのコミュニケーションへ回帰するというのがおもしろい。ここに、内部の自由と、「内部の自由」の外=不自由の関係があるように思う。

「内部の自由」=マニュアル化されたゲーム操作選択の自由
「内部の自由」の外(不自由)=ネットコミュニケーションの不自由

ゲームの中の世界で起こる不確実性よりも、ネットで出会う他者の反応(コミュニケーション)の不確実性の方がおもしろいということだろう。




なぜコンピューターグラフィックで「顔」がリアルに描けないのか


たとえばなぜコンピューターグラフィックでは「顔」がリアルに描けないのだろうか、という問題とも通じるかも知れない。「他者」「顔」と同じで決してマニュアル化されない特別な存在なのだ。

およそ「顔」について、われわれはただ審美的に、あるいは比喩的に語るほかに、記述の手段を持たない。「顔」を逐語記述や計測数値に還元することは、十分に可能であると同時に、まったく無意味だ。「顔の」識別にさいしてパターン認識ほどそぐわない手段はない。それはなぜだろうか。

「顔」の本質はその固有性にしかないのであって、「固有なもの」はパターンに照合できないのだ。「顔」機械的識別が原理的困難に突き当たるのは、つまるところ、コンピュータが「顔」をパターンの組み合わせにしか還元できない、ということによる。


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消費型資本主義からネット型資本主義社会へ?


ここにマニュアル化された消費を中心とした後期資本主義社会から、ネット社会への移行の可能性が見られるように思う。人は必ずしもいまの浪費型の資本主義が必然ではなく、ネット社会は新たな資本主義社会の形態を提示するのではないか。

ボクはグーグルの例をマニュアル化の最先端として上げた。グーグルが目指すマニュアル化は、人がほしいものをより正確に提供(広告)することだ。ボクたちは多くにおいてグーグルを享受するだろうが、グーグルがどんなにほしいものを正確に提供(広告)しても、その外=提供(広告)しないものを望み続けるということだ。そしてそれは情報でもなく、「他者とのわかりあえなさ」に求められるということ。

ボクは消費における商品も一つの「顔(他者)」ではないかと考える。人は商品の向こうにその商品を欲望している「顔(他者)」を見ているのだ。そしてコミュニケーションとして商品を購入する。しかしネット社会では「顔(他者)」は商品を介するような回り道をせずに、テキストにより語りかけてくる。

確かにそれはただのテキストであるが、「他者」のリアリティとは視覚的なリアリティとはまったく関係せず、「わかりあえそうでわかりあえない」という不確実性によって表れるのだ。
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