文明と自然 伊東俊太郎(2002)

pikarrr2006-08-22

「文明と自然」伊東俊太郎(2002)(ASIN:4887082932

1 人類革命

年代:500万年前
場所:エチオピアケニアを中心とする東アフリカで生起
内容:人類史の始まり(類人猿から人類への以降)、人類化(直立歩行、道具、狩猟・採集・漁、集団生活、言語)
自然観:動物と植物との一体化であり、最古の宗教形態であるトーテミズム(ある社会の集団が動物や植物の特的の種と特殊な関係にあるもの)が成立する。

2 農業革命

時期:1万2000年から7000年前
場所:メソポタミアパレスチナ、東南アジア、西アフリカ、メソアメリ
内容:農耕の始まり、食料の能動的な生産、確保。富の蓄積は社会の不平等を生み出し、土地や富を奪おうとする戦争の始まった。
自然観:人間は自然の一部であるばかりでなく、自然を操作し改変するものとなり、人間と自然の間には一定の距離が生じた。周囲の自然物のすべてに、霊魂、精霊の存在を認め、供物を捧げ、豊饒を祈願するアニミズム。自然の、そして大地の生命力を高めることを目指したことは、同時に「大地母神の信仰を生みだした。

3 都市革命

時期:紀元前3000年〜800年
場所:シュメール、エジプト、インダス、中国の殷、メソアメリカ(大河のほとり)
内容:大河のほとりで灌漑による大規模農耕を発達させ、非常に収穫率のよい農耕を作りあげていったことにより「社会的余剰」が生まれた。農業生産の高まりより、直接農耕に携わらないかなりの人口の社会集団が一定の限られた場所に集住し、そこに高度な統治体制が出現して階層が分化し、宗教が組織化されて祭儀センターがつくられ、手工業が発達し、富の蓄積と交換が行われるようになる。(他との経済的ネットワークがつくられる)
自然観:都市民と農民を集中的に管理し、精神的に統合してゆくために、文字が発明され、たんなるアニミズム以上の神話の体系が作り出される。この神話の体系が王権の支配を保障する。そして自然は人格的・個性的な神々のドラマの舞台になる。それらの神々は一つのシステムをつくり、最高神のものに統一され、それが王権とむすびつく。

4 精神革命

時期:紀元前8世紀〜紀元前4世紀
場所:イスラエルギリシア、インド、中国
内容:心の内部の変革、精神の変革、高度宗教や哲学の誕生、「枢軸の時代」ヤスパース)。イスラエルの旧約の預言者たち、ギリシアタレスピタゴラスソクラテスプラトンアルキメデス、インドのウパニシャドから六師外道、ブッダに至るインド哲学、仏教、中国の孔子らの諸子百家
自然観:以前の都市生活を支配していた呪術的・神話的思惟方式を越え出て、合理的な普遍的原理にもとづいて、この世界を合理的統一的に思索し、その中における人間の位置を自覚しようとするもの。自然はなんら人間と対立するものではなく、人間も生命的自然の一部に包み込まれていた。


第二精神革命

時期:4世紀〜7世紀
場所:イスラムの繁栄、西欧世界のキリスト教化、中国の仏教化
自然観:中世キリスト教では、神・人間・自然の一体性は破れて、変わって神−人間−自然という階層的秩序が現れてきた。人間も自然も神から生まれてきたのであり、神はこれらのものから超越している。人間は自然の上にあって、自然と支配し利用する権利を神からさずかっている。

5 科学革命

時期:17世紀
場所:西欧
内容:近代科学の成立、デカルト「機械論的自然観」、ベイコン「自然支配の理念」


産業革命

時期:18世紀後半

自然観:自然と人間とは独立な第三者としてこれを客観化し、このまったくの他者、対立者に対し、外からのさまざまな操作が加え、分析利用する。近代の機械論的自然観の形成。自然を見なすことは、機械は一種の道具であり、自然を道具視する支配的理性の発露である。自然は自ら能動性をもたない微粒子の因果決定的ダンスとなり、人間の理性によってコントロールされる。

6 環境革命

年代:現代
内容:環境問題を自覚的に乗り越えていく
自然観:従来の自然対人間、物質対精神の二元論的対立が究極的に止揚されるのみならず、科学と宗教の対立もこれまでと違った角度から再検討されねばならなくなる。




比較文明論


このような単純な文明論はさまざまな多様な文化を枠組みにはめ込む還元主義的である。しかしたとえば古代(ギリシアローマ帝国)→中世→近代(ルネサンス以降)という従来の西欧中心主義では、突然ルネサンスが登場するような断絶が見られるのに対して、「比較文明」 伊東俊太郎 (ASIN:4130020439) の「Ⅲ 地中海世界 イスラムとヨーロッパ」では、地中海世界の北側<ギリシア→ローマ→ビザンツ→ヨーロッパ>というインド・ヨーロッパ系の文化だけでなく、南側<エジプト→フェニキア→シリア→アラビア>というハム・セム系のは二つの系統の文化が相互に影響しあい発展的姿をしめすことで、イタリア・ルネサンスギリシア文化がアラビア圏で育ちそれが、十二世紀ルネサンスなどを経て、伝来する姿によって描かれる。すなわちこのような比較文明論はある種の還元主義的であるとともに、文明が影響しあう世界システム論的なものを目指すのである。

私はそうした人類史の転回点となったと思われる大きな文化史的革命として、人類革命、農業革命、都市革命、哲学革命、科学革命の五つを考えるのであるが、これはまた同時に従来の西欧中心に定位した世界史像から解放されて、より広く地球上のあらゆる文明を比較史的な観点からグローバルに見直す、一つの新しい歴史的視圏を拓こうとする試みでもある。

ヘーゲルの<ギリシア→ローマ→キリスト教的ゲルマン諸国家>という世界史の図式も、ランケの<オリエント→ギリシア→ローマ→ローマ的・ゲルマン的諸民族>という図式も、さらには<アジア的生産様式→古代奴隷様式→中世封建制→近代資本主義>というマルクスの図式すらも、それぞれ立場やイデオロギー的前提を異にしながらも、等しく世界史の一部分にもに焦点を合わせた西欧中心の一面的世界史観である。

われわれは今や西欧中心的世界史を越え出て、新にグロバールな世界の世界史「再建」しようとする場合、その時代区分の指標としては単に西欧的文脈においてではなく、全世界史的な意味をもつ歴史的事件をとりあげてゆかなければならないのである。

「比較文明」 伊東俊太郎 (ASIN:4130020439




トラウマ的な自然への闘争の強迫性


しかしそこに時代のイデオロギー性がないわけではない。特にこれからむかう「環境革命」にそれが見られるだろう。「従来の自然対人間、物質対精神の二元論的対立が究極的に止揚される」ことが現代の環境への関心を示しているだけでなく、全体が止揚にむけての弁証法的な構造を持つことは否めない。

たとえばそれはマルクス的な環境との調和史観であり、資本主義などに自然との不調和を還元し、「太古において人類は自然と調和し生きてきた」というような言説に見られるのではないだろうか。

ボクが考えるのは、「人類革命」「農業革命」期においては、たしかに現代のように外部として「自然」という概念はなくトーテミズム、あるいはアミニズム的に一体化していたと思われるが、それは調和とは非なるものではないだろうか。たとえばボクたちは「動物は自然と調和している」というが、動物は決して自分たちが自然と一体化しているなどと考えないだろう。彼らは生きるために「闘争」しているのである。ただあまりに巨大な自然に包まれているのである。

このような意味でおいて人間は太古から自然と闘争して来たのである。自然はトラウマ的であり続けるのである。現代において環境を破壊しすぎているとしても、容易に止まらないのは、単に下部構造としての資本主義経済機械が作動し、止めようがないだけでなく、人間は安易に「自然」との闘争を止めることができないのではないか。現代の後期資本主義の「無駄」な消費社会を抑止してもボクたちは生きていけるだろうが、トラウマ的な自然への闘争の強迫性を排除することはできないのではないだろうか、と考える。

だから環境革命とは、「従来の自然対人間、物質対精神の二元論的対立が究極的に止揚される」自然と調和でなく、乱獲しすぎた自然からの逆襲をいかに管理するかの闘争なのである。




自然主義的闘争論


「文明と自然」の区分と、ボクの自然主義的闘争論との時期的な対比をしめす。

自然主義的闘争論」

             社会形態/交換様式/闘争様式(純粋略奪の快楽)
①人類革命〜農業革命
 自然崇拝の時代・・・未開社会/互酬/自然崇拝し、純粋贈与(ポトラッチ)する暴力

②農業革命〜都市革命〜精神革命
 自然排除の時代・・・都市化、帝国/再配分/「動物」(奴隷、異教徒)を排他する暴力

③科学革命 第1段階:近代革命、第2段階産業革命
 自然征服の時代・・・ 国家、資本主義/交換/自然を数量化(科学技術)によって征服する暴力、過剰消費する暴力

④科学革命 第3段階:情報革命、環境革命〜
 自然管理の時代・・・地球環境保護機構/交換、再配分(環境税)/自然を管理する暴力、ネット(疑似自然)を開拓する暴力


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