熱狂の人類史  自然(無垢)への熱狂が歴史を動かしてきたのだ。 

pikarrr2006-08-23

①自然崇拝の時代  

人類革命〜農業革命


人類革命・・・人類が類人猿からヒトへ、約500万年前のアフリカ
農業革命・・・農耕の開始、西アジアメソポタミア)、東南アジア、南中国(長江)、メソアメリカ(メキシコ)、西アフリカ(ニジェール)、1万年前から前5000年のあいだ


「文明と自然」 伊東俊太郎 (ASIN:4887082932*1

「人類革命」とは人類が類人猿からヒトへ進化した時代である。この時代、人は狩猟・採集・漁によって自然の中に生きている。予測不可能で不確実な自然との近接はなにが起こるかわからないとても恐ろしいことだ。この対応としてトーテミズムのような自然崇拝がある。

崇拝とは擬人化である。自然を(超越的な)「他者」とすることで、そこにコミュニケーションを成立さる。コミュニケーションの成立とは、負債を分け合う贈与関係に引き込むことである。たとえば自然災害は「自然」から人間への負債(貸し)である。だからそのお返しとして、自然のめぐみとして貸したものは返礼される。

呪術的祝祭は、自然の「他者」とのコミュニケーションの場であり、ポトラッチのような純粋贈与は自然の「他者」へ最大の負債を追わせる行為(暴力)であり、熱狂である。

人間化するとはこのように自然との間に境界を引く行為である。これは名付けるという言語化にも繋がるだろう。さらに「農耕革命」においても自然の中で生きることは変わらず、自然を、そして特に大地を「他者」として「供物を捧げ、豊饒を祈願するアニミズムによってコミュニケーションが行われる。

しかし農耕では、人間は自然の一部であるばかりでなく、自然を操作し改変するものとなり、人間と自然の間には一定の距離、コントロール可能な自然の領域が生まれる。これをボクは、内部(人間)と外部(自然)の間の「グレーゾーン」と呼ぶ。




②自然排除の時代  

農業革命〜精神革命


都市革命・・・都市の形成、食物の生産に直接従事しない都市民の誕生、メソポタミア、前3500年、エジプト、前3000年、黄河、前1500年
精神革命
 第1段階:高度な宗教や哲学の成立、前8世紀から前4世紀、旧約の預言、ギリシア哲学、六師、ブッダの思想、諸子百家の思想
 第2段階:中国仏教の成立、西欧のキリスト教化、イスラムの勃興、4世紀から7世紀

「都市革命」によって、「大規模農耕を発達させ、非常に収穫率のよい農耕を作りあげていったことにより「社会的余剰」が生まる。」すなわちコントロール可能な領域、「グレーゾーン」が広がり、自然の不確実性は強固な「隔壁」によって外部へ隔離され、都市内部において予測可能性が向上し、生活は安定する。

またこのような「隔壁」は人間内部を高度に成熟させるとともに閉塞を招く。強い贈与関係のなかで「社会的余剰の分配」などをめぐり内部抗争が頻発する。「そこに高度な統治体制が出現して階層が分化する。」

これは自然を外部へ隔絶することで、内部(人間)内に疑似的外部との境界が生まれたことを意味する。疑似的外部とは、異民族、異教徒、あるいは奴隷であり、彼らは野蛮な動物(疑似自然)であり、怪物、悪魔などに負の神話化し、外部に排他し、暴力を行使する。

自然神崇拝から、神話は内部(人間)の抗争の物語、そしてたとえば神−王−司祭−平民−奴隷(動物)のような「神話の体系が王権の支配を保障する」物語のための一神教が求められる。

宗教と戦争が切り離せないのは、都市化により人間が内部へ閉塞するなかで、内部を強化するために宗教はうまれ、そして閉塞の出口として、異民族、異教徒あるいは奴隷などの「野蛮な動物」としての疑似自然が必要とされるためである。

またこの時期、労働から解放された上位層の中で、ギリシアの哲学者、ブッダ孔子などのように、隔絶して外部(自然)への「合理的統一的に思索し、その中における人間の位置を自覚しようとする」「精神革命」が起こる。これは、人間中心主義とともに合理化という近代へつづく、自然(未知)を合理的に征服する闘争様式の芽生えである。




③自然征服の時代  

科学革命(第1段階:近代革命、第2段階:産業革命


 第1段階:近代科学・・・17世紀西欧、デカルト、世界史における「近代」の始まり
 第2段階:産業革命・・・18世紀後半

自然の脅威の排除を可能にした都市化が高度に進み、宗教的秩序をもとにした社会的な贈与関係からの個人として自律という啓蒙主義が広がる。すなわち「精神革命」の広がりである。

内部の安定が保障される中で、ギリシア的合理性は、中世においてアラブ圏で育まれ、ルネサンスによって西欧に回帰する。中世のカトリック的閉塞からのプロテスタントによる自律、またルネサンスの数量化革命、それにともなう大航海時代の自然開拓と重商主義によって、自然としての新大陸(現住民含む)そして科学的未発見は、「グレーゾーン」の開拓として人々は熱狂する。

ここでは、「自然と人間とは独立な第三者としてこれを客観化し、外からのさまざまな操作が加え、分析利用する。自然を道具視する支配的理性の発露である。」そしてデカルト心身二元論は内部の「心」と外部(自然、機械)の「身体」として、内外の境界を、人間内部に侵入させる。

そしてこの心身二元論の重要性を決定的にしたのが産業革命による資本主義化である。身体を労働力とし、心を消費者とする心身二元論的人間の発生によって、資本主義は成功したのだ。

近代においても戦争は活発に行われる。大航海時代は新大陸の征服という、かつてと同様に外部(異教徒、異民族、奴隷)を生み出すための「快楽の戦争」であったが、帝国主義化、資本主義化により世界はグローバル化し、国家間の配分競争という「大きな内部」内の闘争となった。すなわち世界大戦の悲惨さは、科学兵器により大量殺人が行われただけでなく、もはや外部を見いだせない「人間」同士の善悪を持ち込んだ内部内の残忍で、無残な殺し合い出しかなくなったということだ。




共産主義の失敗と後期資本主義の閉塞


近代の啓蒙主義革命の革新性は、絶対主義→資本主義→マルクス主義など社会主義化である。そして世界大戦後、共産主義国家が多数成立した。しかしこれらは失敗におわった。

なぜ資本主義は成功し、その「先」社会主義は失敗したのか。ボクは社会主義には「外部」がないからだと思う。社会主義が提供しえた「外部」は冷戦における戦うべき資本主義という神話のみである。なぜなら社会主義とは人々の「外部」への熱狂(自然主義的闘争)を資本主義的悪として、外部を解消することを目指す思想だからだ。

資本主義は産業革命当初、労働者の「身体」を機械として組み込み、「心(人間性)」を疎外した。しかしその後、生産中心から消費中心へ移る中で、このような搾取は緩和されてくる。なぜなら資本主義の本質はマルクスがいうように資本家のために資本を生むことよりも、消費者のために疑似的な外部(自然)、すなわち未知の新しい製品を提供しつづけることにあるからだ。これに対して、共産主義はこのような資本主義の疑似的な外部(自然)の消費を排除した。

だからといって資本主義が問題を解決したわけでもなんでもない。資本主義における搾取の問題はグローバル化しただけである。先進国の人々から隔離された発展途上国など周辺で自然は(人的も含めて)資源として略奪されている。

また先進国では情報化社会に向かう中で、消費という疑似自然へ欲望の徒労感が生まれている。また豊かになり、価値多様化する中で、自然の不確実性は低下し、人々は「自由」になることで、地域コミュニティが崩壊している。このような自由の中で、人々はより純粋な外部(未知、無垢)、すなわち「不自由」を求めるというパラドクスの中で閉塞している。




④自然管理の時代 

科学革命(第3段階:情報革命、環境革命)


科学革命 第3段階:情報革命、20世紀後半
環境革命・・・地球環境問題(京都議定書)、グローバリゼーション

このような状況の現代で重要なのが、ネット革命ではないだろうか。ネットは新大陸に語られるように新たな技術導入が疑似自然(外部)開拓のメタファーになり、人々の欲望を想起している。

またネットは当初グローバルビレッジなど左翼的幻想で語られたが、爆発的な普及を支えたのは、原始社会に回帰したような部族的な小さなコミュニティへの閉塞性である。そこでは、疑似的ではあるが、消費社会で失われた直接的な他者との繋がりの取り戻しが行われている。

最近のネットの右翼化など、コミにティへの閉塞性をあらわすは、「自然排除の時代」の外部(異教徒、異民族、奴隷)を生み出すための「快楽の戦争」への回帰である。たとえば嫌韓ではネット上で韓国人は負の神話化され、外部に排他し、ヘイトスピーチの暴力が行使される。




環境問題の閉塞とネットの熱狂


ネットへの熱狂は、消費社会の主役であり新たな商品を提供しつづけ、それを補助するマスメディアへの反動でもある。「自然征服型」の過剰消費の熱狂から、資源消費に頼らない熱狂への移行であり、環境問題へもつながっている。

環境問題とは「地球にやさいく」というような安易な環境との調和などではなく、「グレイゾーン」の管理する、再征服しなおすことである。このような問題は世界レベルでの解決が求められ、世界が保守主義に傾くのは仕方がないだろうし、現に京都会議のように世界的なレベルが要求され、オゾン層対策では成功を収めた。

環境問題、先進国の高齢化などの閉塞により、近代以降の科学技術も自然開拓、征服から管理へむかい、快楽を生む行為でなくなっている。たとえば遺伝子工学も未知(外部)を開拓すらものから人間にむかう現代、内部に近接し善悪を問われつつ、快楽することが抑圧されている。すなわち「自然管理の時代」とは、外部(自然)閉塞の時代でもあるのだ。

だからなおさらネットは重要になるだろう。ネット上は、「快楽の戦争」へと回帰し、多くの騒乱、抗争、戦争がおこるだろう。しかしそれは環境管理社会維持にはしかたがなく、テロよりも良いだろうということである。だから今後人々の生活、文化、そして「リアリティ」はネット上移行する。まさにネットに「本当の自分」があり、ネット上に生きるのである。

環境問題の世界的は保守主義化とネットの熱狂という自由主義の二重性が「自然管理の時代」のあり方であり、現在のネオリベラル傾向はこのような二重性によって支えられ、この傾向はさらに進むのではないだろうか。

ではその閉塞の時代の先は?自然そのものはこの世界そのものであり無限である。火星移住など宇宙へ?あるいは時間を超越するタイムトラベル?あるいはヴァーチャルリアリティによりネットは物理的になり移住する?ネット上の精神世界を生きる?
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