「熱狂の人類史」と歴史主義と脱構築とサンバルタン

pikarrr2006-08-24

■比較文明論と歴史主義と脱構築
 
リーマン◆N.J4yHzilE
歴史自体が一つの主体から構成されたお話に過ぎないことはすでにレヴィ=ストロースサルトルを歴史主義者として葬り去ったときに明確になっています。

「歴史主義」は一つの進化論であり、それは漸進する前提に基づいていますが、その漸進とは前提すなわち暗黙のうちに進化論という一つのイデオロギーをうちに含んでいます。最後の審判の視点から遡及的に歴史は語られる訳ですね。この最後の審判大文字の他者を想定してそこから遡及的に構成されるものこそ歴史です。

その野蛮さについては、アドルノ/ホルクハイマーによって啓蒙の弁証法(野蛮なヤツラは文明国である我々が矯正していいのだという暴力)と言う形で否定されていましたが、レヴィ=ストロースに至っては、ある社会はそれ自体で閉じており、ある文化と他の文化の優劣性は論じる意味がない、と宣言されました。構造主義の後、歴史主義はもう存在しない。

だからぴかぁさんが「歴史」について語るとき、それは主体の欲望する対象aとしての「歴史」であり、因果関係の物語であると理解して良いのですね?

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
「熱狂の人類史」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060823)は進歩史観ではありません。各時代背景の中で、ヒトはいかに外部(自然)を見いだし、熱狂したか。ということです。だからどこにも止揚しません。

むしろ、進歩史観脱構築、系譜学的でさえあります。歴史還元主義については、「文明と自然 伊東俊太郎(2002)」「比較文明論」以下で、(http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060822)で少し書きました。

西洋中心主義的歴史史観の脱構築としての、比較文明論(伊東)の脱構築としてのボクの闘争論があるということです。再度言えば、だから「歴史主義」から逃れているとは言いません。脱構築って、終わりなき解体と構築でしょ。

進化論でなく、進歩史観ですね。進化論そのものは歴史主義でなく、進化論をどのように理解するか、多くにおいて進歩史観で理解することが、歴史主義です。

構造主義というよりも、歴史主義批判を語るなら、ニーチェの系譜学ですね。歴史がいかに語られたかを考えるわけです。それでも、ラカン的に?いえば、「歴史」について語るとき、なにものも「歴史主義」から逃れられない。だから「主体の欲望する対象aとしての「歴史」であり、因果関係の物語である」ことを怖れるなかれ、というところでしょうか。

書く人一人が、「こう書くと形而上学的だから、こう脱構築しよう、いやそれでも形而上学的?だから、こう脱構築しよう」と、考え続けるのが、強迫神経症的であり、デリダみたいに、「ボクはデリダであるが、デリダでない」みたいな意味不明な文章になります。

どこかで形而上学的ですがなにか?」と開き直れば良いのです。心配しなくても誰かがつっこみます。あるいは忘れられていきます。それが情報化社会というものであり、それこそが本当の脱構築ではないでしょうか。

リーマン◆N.J4yHzilE
なんかすげえ了解です!存在論的郵便的」で東センセがバチン、と後期デリダを叩いていたスッキリさを感じます。その、「手紙が宛先に届かないのではないか」と不安がる症候自体が脱構築されるべき対象なのですね。

しかしながら、それもまた現在の日本のある一定以上の学力水準を持った人々のインフラクチャを前提としており、手紙を解読できない人々はこれから増えていき、手紙は呪術めいたものになっていく気がします。

原因と結果の因果関係が、一つの構築物に過ぎず常に仮定に過ぎないという相対主義的な立場をとるためのインフラクチャとして、「物語る力」がやはり重要ではないかと思うのです。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
動物化に近い議論でしょうか。ボクはあまり動物化は心配していないのですね。人はやはり溜まらなく「物語る」ことが好きな動物だと思うのです。だからこそ、みながネットに集まるのではないでしょうか。

リーマン◆N.J4yHzilE
動物化については、「乖離化」というキーワードがセットになっていますね。まぁ、この問題意識については現時点でのぴかぁ〜さんの論点とはずれてしまいそうなので、置いておきます。この「語る力」は私はしばらく言い続けるつもりなので(笑

ただ、やはりかなり一部の変化を対象にしていることは間違いないように思えるんですよね……

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
動物化については東が多く語っていますし、最近ではポストモダン心身二元論的解離構造についても語っています。これは環境管理権力に繋がりますが、いろいろな人に語られています。それもあり、逆に?ボクは、「人間」であり続けることに注目します。

少しぐらい豊かになったからといって人間である強迫性からは逃れられない。逆に、動物化させる環境は、より反動としての、強迫的な人間化が起こるということです。

これは先ほどに繋がります。「どこかで形而上学的ですがなにか?」と開き直れば良いのです。心配しなくても誰かがつっこみます。あるいは忘れられていきます。それが情報化社会というものであり、それこそが本当の脱構築ではないでしょうか。」

動物化させる環境、情報化によってどのような言説も脱構築される情報化では、むしろ、形而上学的ですがなにか?」と開き直るぐらいがよい。ということです。

リーマン◆N.J4yHzilE
時々思うのは、日本における情報化社会を歴史的に読み解こうと言うとき、選ばれる歴史的区分がかなり限定的であるということ、この限定的であることに十分意識的である人もまた、日本に於いて語られる歴史に過ぎないことを忘れているのではないか、ということです。

たとえばアフリカで「子ども兵」が盛んに使われる地域に於いて「情報化社会」とは、どの地域に兵士として狩りやすい学校や集落があるか、それぞれの子どもがどういった情報を持っているか、というものになります。全く開かれているどころか、一方的な収奪の道具になっているのです。

「情報化社会」を系譜学的に語る取り組みはぴかぁ〜さんもされていますしこれまでも積極的になされていますが、かつてのオリエントのように、無意識的に排除されている要素があまりにも多いのではないかという気がします。その点についてはどのようにお考えでしょうか?

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
これは、ポストコロニアルやスピヴァグのサバルタンの問題でしょうか。先に書いたように、比較文明論はイスラム圏の歴史と比較するなど、西洋中心主義な歴史史観を脱構築する目的があります。

一部の人しか公的な言葉を持たない時代、さらには一部の人しか語ることが許されない時代も あったのですね。ボクは、かつて2ちゃんねる脱構築装置だ。と言いました。ネットウヨなど神話を生む面もあっても。

「無意識的に排除されている要素」があると思えば、それについて大いにみな語りましょう。それこそがポストモダンであり、本当の脱構築ではないでしょうか。

ただ脱構築するためには、理性的な言葉が必要になりますから、サバルタン(みずから語り得ない従属的な諸階級・民衆)をいかに救うかという問題は残ります。またたとえばネット環境から排除された人々はどうするのか、などですね。




「欲望の構造」は根源的か
 
リーマン◆N.J4yHzilE
人類史というだけあって射程が広いですねぇ……基本的には、人間は欲望を外部に見いだし、それを征服しようとする傾向を一貫して持ち、各時代は、その内部と外部、欲望の形式の変化である、とまとめられるのでしょうか?

そしてデカルト心身二元論は内部の「心」と外部(自然、機械)の「身体」として、内外の境界を、人間内部に侵入させる。そしてこの心身二元論の重要性を決定的にしたのが産業革命による資本主義化である。身体を労働力とし、心を消費者とする心身二元論的人間の発生によって、資本主義は成功したのだ。
この点は極めて重要です。心身二元論が、欲望の対象を外部に向け、内部にwhyと問うことを止め、外部の改造をhowと問うことによって資本主義を発展させてきた。一度この「我」が発生してしまうと、自己としては二重に引き裂かれ、社会的存在としても二重に引き裂かれながら、資本主義という欲望の薪で回る機械から離れることが出来ない。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
その強迫性の源泉は、太古からの自然のもつ「無限の不確実性」へのトラウマであるということです。人類は約500万年前に生まれて、農業化するのでも1万年前ですから、99%以上が野性サバイバル生活なのですね。少しぐらい豊かになったからといってこの強迫性からは逃れられない。

リーマン◆N.J4yHzilE
この強迫性が概念的なものとして、日常的に再現されるものではない環境にいる人間は、世界的に見れば少ないです。

第三世界では、現在でも自然および先進国の作り出した負の遺産の解消のために、殺し合い、奪い合い、生き延びることが全てであるという人生を送っている人はいくらでもいて、そういう人たちは常に「外部」と闘っていることになります。

話が若干逸れますが、その点でも、子どもの頃から紛争を経験して戦争以外の状況を知らない人間が社会を営むということは極めて難しい現実があり、トラウマは現在でも再生産され続けていると感じます。

このような直接的な外部からの攻撃および闘争とは別に、「迫害感」「飢餓感」などといった感覚から行動を起こし、「征服感」「全能感」で自身のアイデンティティを見いだすという、極めて程度の低い「人間的な」行動は、十分に衣食住が足りている先進国では容易にみられることですね。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
「強迫性の源泉は、太古からの自然のもつ「無限の不確実性」へのトラウマである」といったのは、生存するために生きるという動物的だったかもしれませんが、ボクは、第三世界だから人は生存するためにのみに生きるという、マズロー欲求段階説のような欲望が段階的に達成されるようには考えていません。

彼らも人間である以上、どんなに貧しくても、生き残るためのみに生きるのでなく、たとえば遊びも楽しみ生きる、欲望的に生きるのだと思います。外部が差し迫るとともに、自ら外部を見いだそうともするのです。

だから貧しいからボクたちよりも動物的というのは、先進国中心主義な形而上学的ではないでしょうか。言葉を持たないサバルタンは、哲学者がいうようにただ従順な動物などではない。人間であり、欲望する。だから言葉なく欲望する。たとえばテロリズムなどの暴力で。ボクが動物化よりも、人間(欲望)が問題だ、というのは、このような意味です。

そしてボクは「欲望の構造」という人間性を太古から変わらず働くものと考えているのです。

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*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板自然主義的闘争論 その2」スレッド http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1154698437/からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。

*2:画像元 http://www1.cncm.ne.jp/~taedu/yamagasira/iraq006.html