なぜ人々はネットへ熱狂するのか

pikarrr2006-08-29

資本主義革命

人間は経済的存在でなく、社会的存在である、といったアリストテレスは正しかった。人間の目的は、物質的財産の獲得という形で個人的利益を守ることにあるのではなく、むしろ社会的名誉、社会的地位、社会的財産を確保することにあるのであろう。財産はなによりもまず、このような目的を得る手段として評価されるのである。人間のもつ誘因は「混合的」な性格のものであって、これには社会的承認を得ようとする努力が伴うものである−−生産の努力はこの努力に付随するものにすぎないのである。

つまり、人間の経済は原則として社会関係のなかに埋没しているのである。こうした社会から、逆に経済システムのなかに埋没している社会への変転というのは、まったく新奇な事態であったのである。

「経済の文明史」 カール・ポランニー (ASIN:4480087591) 時代遅れの市場志向

ポランニーが指摘するように、産業革命以降、「経済システム」唯物論的な下部構造として強力に作動することで、「社会システム」から乖離した。社会的な関係が経済構造を規定していたのが、経済システムが浮上し、社会的な関係を規定する革命が起こったのだ。そしてそれはたった200年弱前に起こったことなのだ。




消費、サブカルチャー、ネットへの熱狂


しかし後期資本主義に至ると、このような「経済性の追求」重視によって規定された社会からの揺り戻しがおこる。アメリカに現れたあふれる商品による煌びやかな消費社会とは、商品の先にある繋がりを擬装(フェイク)しているのだ。みなが欲望しているものを真っ先にあなたが手に入れることで、みながあなたと繋がろうとしている、ように見せる擬装(フェイク)であり、「まなざしの快楽」である。消費社会における「消費への熱狂」とは、経済システム(市場)の中で新たな「社会性」を獲得しようとする反動としての面がある。

このような「社会性」の取り戻しは、サブカルチャーへの熱狂を生み出す。サブカルチャーとはこのような「まなざしの快楽」がもはや商品選択だけでは収まらず、自ら創造したいという欲動を想起させたものである。だからサブカルチャーはあくまでみなに受け入れられ「商品」を作成すること、商品化され市場流通すること、将来商品を製作する側に回りたいという前提にある。オタクもその流れの一部である。

さらに展開するのがネット社会である。ネット上の創作活動はサブカルチャーの延長線上、消費社会であらわれた「社会性」の揺り戻しの延長線上にあると思われるが、しかしもはや経済性への動機は形骸化し、新たな「社会性」の獲得に純化している。たとえばこれは「繋がりの社会性」と呼ばれている。




地域コミュニティよりもネットコミュニティへ


なぜ社会性の取り戻しが、家族や学校など地域コミュニティにむかわないのだろうか。家庭や学校など地域コミュニティが、よい成績、よい学校、大企業がめざすことを目的化するのは、経済性の追求、市場において優位な立場に立つことを重視するためであり、下部構造としての経済システムに対する上部構造として再構造化された「社会性」であるからだ。

サブカルチャーコミュニティや、ネットコミュニティなどで対価なく労働が行われるなど、若者が地域コミュニティでなく、サブカルチャーやネットに社会性を求めるのは、従来の「経済性の重視」に根ざしたシステムからの変容を表しているのだ。

ネット社会は当初、グローバルビレッジ世界市民などのイメージで登場したが、これは資本主義や社会主義などの近代の経済性重視社会の延長線上で語られたイメージである。現在、これとは別に局所的なコミュニティの繋がりを求める場として作動している。ここで展開する「小さなコミュニティ」内の贈与関係は、驚くほど未開社会の共同社会に似ている面がある。




熱狂の歴史


これらは、熱狂の遷移としての面を考えなければならない。消費社会が、サブカルチャーが、ネットが熱狂であったように、資本主義革命も新たな「自然(フロンティア)」の発見とともに、そこに人々が殺到した熱狂であった。それは単にブルジョアの資本追求の熱狂でなく、プロレタリアートにとっても「豊かさ」への熱狂であった。

その熱狂が、経済システムを社会システムから浮上させ、下部構造として強力に作動を求める。そして社会性は家庭、学校、企業などの形態として、再構築された。いまでは陳腐化しつつあるこれらの社会性(コミュニティ)が強力な繋がりとして作動した時期はあった。それはまさに、資本主義革命の熱狂とともにあったのだ。

そして豊かになり、環境問題がおこり、「経済性の重視」という社会は閉塞する。消費、サブカルチャーは、より精神的な「自然(フロンティア)」の発見であり、さらにネットはより空間的なメタファー、疑似「自然(フロンティア)」の発見であり、人々は熱狂とともに殺到したのである。そして熱狂に続いて、それにあわせた形態に社会秩序は新たに構造化されていくのだ。

その時代、人々はどこに新たな外部としての「自然(フロンティア)」を見いだし、熱狂し、社会秩序を再構築していったかのか。ボクはこれを自然主義的闘争」と呼んでいる。




「リアリティ」はネット上に移っていく


最近、セレブブームであり、TV番組などで紹介されている。セレブの魅力はその経済的な裕福さそのものにではなく、セレブという生活様式の貴重性にある。ボクたち庶民とは異なるだろうその生活様式において彼らのアイデンティティは誇示される。それはまさに消費社会における「まなざしの快楽」であり、その物質的な貴重さにボクたちのまなざしを奪われとともに、豊かさにアイデンティティを求める「空っぽさ」を嗤うのである。

だからといって、ボクたちは容易に資本主義社会構造を捨てられない。最近ではグーグルのアフェリティブなど、ネット上の無償の労働が対価にかわる画期的なシステムが開発されたりしているが、これが現在の資本主義的経済システムにとってかわるほどのものではないことは容易にわかるだろう。だから資本主義的な経済性とネット社会的な社会性の二重構造は変わらず進むだろう。

これらの消費、サブカルチャーネットへの熱狂は、新たな「社会性」の取り戻しであるとともに、経済システムをより活性化している。しかしネット上の様々な活発なテクノロジーの開発、それにともなう経済上のネットバブルなどによって、新たな資本主義を活性化するものとしても、これらは人々がネットに社会性を求めて熱狂することに支えられている。

ある程度の豊かさの中にいるボクたちは、資本主義的な経済性の追求そのものへの魅力は色あせていくだろう。そして今後、「リアリティ」は、ネット上の社会性に見いだされていくだろう。