なぜ平等であることは「自然」なことではないのか 環境×公平×正義 その1

pikarrr2006-08-25

謙遜の意味


人は他者へ転移する。他者が私であり、私が他者を指向する。このような力学において、人はそこにある差異を平準化しようとする力が働く。たとえば自分だけが幸せになるとあまりそれを全面に出すことははばかれる。この転移関係において、他者よりも幸せであることは負債感がともなう。

人が社会生活で謙遜するのは、転移の力学が無意識に働いてしまうことを抑制するためである。転移の力学は他者に嫉妬を生み、また自らの中に後ろめたさを生み、幸せへの純粋は努力を無意識に抑制する。このように謙虚であることは、社会生活において重要な意味がある。





「等価交換関係として平等」「贈与関係の公平」


このような転移の力学による「平準化」は、「平等」とは異なる。平等とは、近代的な思想である。歴史上、人が平等であったことの方がめずらしい。男尊女卑、階級制、現在も貧富の差など、実質的には不平等である。

近代の平等の本質は、基本的人権の自由であるとともに、経済活動に参加する機会の平等という資本主義的リベラリズムによる面が強い。資本主義社会に平等に参加できることが、資本主義社会を促進する。

資本主義的な平等とは、負債を生まない「等価交換関係として平等」である。簡単にいえば、1万円は誰にとっても1万円であるということだ。しかしボクが先にいった転移を元にした「平準化」とは、負債感の消失を目指すものであり、「贈与関係の公平」である。

「贈与関係の公平」とは、単に貨幣価値にも、数量に還元されない。もっと主観的、質的なものである。様々な他者との関係の中で、負債感の消失を目指す平等である。だからたとえば封建的な階級制は平等でなくても、公平ではありえる。互いの関係の中で、それぞれが負債感を生まなければ、それは公平なのである。




小さなコミュニティの公平、大きなコミュニティの平等


たとえば現代においても、なんらかの「小さなコミュニティ」に参加した場合、ある種の力関係(順位付け)ができることは自然なことである。たとえば職人の師弟関係、仲間の尊敬の関係、恋人、家族の愛情の関係などなど。これらは「贈与関係の公平」であり、そこに負債感がうまれなければ、それは一つの安定状態である。それでもこのような力関係に大きな負債感が溜まるようだと、公平の安定状態は破綻する。

このような公平状態に、逆に「みな平等」だと強制するのは、逆に不安定な状態を生む。しかしコミュニティが大きくなりすぎると、コミュニティへの帰属意識は低下し、力関係によって安定を保つことが困難になる。

たとえば小さな仲間内でのいざこざは話を良く聞き、なめらかな判断で仲裁することができるが、大きなコミュニティの問題は、それぞれの話を聞いていけはきりがなく、杓子定規であっても、何らかの取り決めをしておいて、それに従うしかない。公平による安定状態が限界に達した時に安定状態を生むために、「みな平等」だと強制する取り決めが必要になる。




「自然状態」とは公平を求める状態である


これは、「自然状態」の議論に繋げられるだろう。「小さなコミュニティ」ではロックが言うような自然状態、公平な秩序が可能であるが、「小さなコミュニティ」の乱立は、コミュニティ間の闘争が生まれ、「大きなコミュニティ」においてはホッブスがいうように強制的な力が必要であるということだ。これはヒュームの「人間本性論」に近い。

人間にとって「自然状態」とは「公平」を求める状態ということだ。そして公平とは主観的なものであり、大きなコミュニティの秩序を実現するために、国家などによる強制的な取り決めが必要とされる。

だから政治とは、公平を目指した制度作りである。主観的な公平と制度が達成しようとする公平には必ず差異がうまれる。




ロールズ「善に対する正義の優位性」


ロールズリベラリズム「正義論」において、正義とは、「公正としての正義」「自由で平等な人々が完全に「自発的な意志」のもとで、合意する取り決め」である。だからロールズ「善に対する正義の優位性」というとき、「善」がボクが言う主観的な「公平」であり、「正義」が取り決めによる「平等」に対応するだろう。

ロールズの正義論の核心である「善に対する正義の優位性」をボクの考えで説明すると、人々は公平(善)を求める。しかしこれは小さなコミュニティの主観的な価値であり、コミュニティ間で調整することはむずかしい。よって、大きなコミュニティにおいては、より客観的な取り決めによる平等(正義)を目指される。しかし人々は公平(善)を求めているので、取り決め(正義)との差異が生まれ続ける故に、終わりなく、取り決め(正義)を試行錯誤(内省的均衡)し続ける、ということになるだろう。

しかし取り決めがロールズのいう「公正としての正義」すなわち自由と平等である必然性はない。すなわち正義が封建社会的階級制、あるいは宗教的な原理主義的平等、社会主義的平等、修正的資本主義的平等によって目指されてはならない前提はない。ロールズの正義がリベラリズムであるのは、あくまで現代の資本主義社会を支えることを前提としたイデオロギーであるからだ。




環境×公平(ネーション)×正義(国家)


だからヘーゲルフクヤマ的な「歴史の終わり」、すなわち資本主義的リベラリズムによって公平への試行錯誤の方法は終結するということには根拠がない。「環境」が変われば、当然、公平を目指す方法論も変化が求めるだろう。

重要なことは、公平(内部)と環境(外部)のバランスの中で「正義」(公平を目指す取り決め)は決定する。ラカン想像界象徴界現実界のボロメオの輪に対応させて、転移の力学による「公平」、公平を目指す取り決めとしての「正義」「環境」の相補的な関係を上げることができる。柄谷的にいえば、「環境×公平(ネーション)×正義(国家)」ということでしょう。

たとえば現代、資本主義的リベラリズム、すなわち「平等」の「正義」が勝利しえたのは、「環境(自然)」を征服し、人々に豊かさを提供することで、人々の「公平」を満足させることに成功したからだ。そこには緩やかでも資本主義的グローバルなネーションが芽生えている。




「歴史は終わらない」


しかしこれも一時的である。資本主義は産業革命からの短期において、環境問題をうみ、このまま維持することは難しく、何らかの修正を求められるだろう。環境問題に対応するための「正義」(公平を目指す取り決め)は、国際協調の必要があるが、社会主義的なものが求められるのではないだろうか。

また資本主義的な豊かさは先進国などの一部の人々であり、それに対する後進国からの不公平であるとの反動が起こっている。資本主義リベラリズムが生んだ不公平に対して、異なる「正義」(公平を目指す取り決め)が求められるのは当然でもある。国家社会主義が破綻した今、宗教的な原理主義による正義が台頭しているのである。

今後も環境が変化することは否めない。そして環境が変化しつづけることで、公平への「正義」の試行錯誤は終わらないだろう。

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