ネット社会は資本主義的な秩序を乗り越えるのか
自由への熱狂
産業革命は19世紀であるが、16世紀ルネサンスにはじまり、宗教革命、科学革命、大航海時代など、人間主義、啓蒙思想の普及という近代化の潮流の帰結として起こった。さらに言えば、このような人間主義、啓蒙思想は、ギリシア思想であり、初期のキリスト教であり、紀元前の精神革命といわれるものが、中世をイスラム圏で育まれ、到来したものである。このような潮流の中の産業革命、そしてその後の資本主義の躍進を考えるときに、その根底に「人間中心主義的なもの」が流れている。
資本主義のマルクス的生産中心構造は、瞬く間に消費中心構造へ転換された。むしろ資本主義とは消費社会のことを指す。産業革命後、経済システムを下部構造として社会は構造化され、家庭、学校、企業などがつくられたが、消費社会という欲望の熱狂の中で、容易に書き換えられている。
大量生産革命(フォーディズム)、大量消費革命(マクドナルドイズム)、サブカルチャー革命(商品選択という消費のみならず、創造によって市場に参入する)、情報革命、金融(マネーゲーム)革命、グローバリズム・・・これらはまさに過剰さであることで繋がる。ここに流れる「人間中心主義的なもの」とは、「自由への熱狂」である。
「ネットでお金は儲かるか」
「ウェブ進化論」の中にキーワードに「不特定多数無限大」がある。「不特定多数無限大」とは、「インターネットという人々と情報が「無限の世界」」の力である。そして「不特定多数無限大」への「信頼あり」か、「信頼なし」かで分類されている。
たとえばヤフー、楽天などネット企業は、「信頼ない」に分類される。信頼がないから、様々なセキュリティであり、管理、防御が施される。それに対して、「信頼あり」の例はウィキペディアである。ウィキペディアにウソを書くことは容易であるが、「不特定多数無限大」によって「価値」が構築されるだろうと信頼することでなりたっているのだ。
そしてこの「価値」とは資本主義的な価値、「経済的価値の構築が正しい」という前提がある。もっといえば、「ネットでお金は儲かるか」ということだ。たとえば2ちゃんねるは「不特定多数無限大」という力が日々蠢く場であるが、「ウェブ進化論」の彼岸にしかないのだ。
経済的な秩序からの自由
著作権、肖像権などの資本主義的な秩序が無視され、市場経済から略奪された商品、あるいは対価のない労働で製作された作品が、「貨幣による等価交換」なく、タダで大量にばらまかれている。ネットは資本主義的な秩序と衝突しつづけている。
経済を中心に熱狂が巻き起こったのは、人類史数百万年のうちの産業革命以降のたかだか200年である。ネットの熱狂が「自由への熱狂」の潮流にあるとき、ネット革命が、資本主義的な秩序さえも解体する力を持ち得ている可能性があるのではないだろうか。
資本主義で解体された拘束は、互いに規定しあう社会的な関係からの自由であった。ネット社会で解体される拘束は、経済的な秩序からの自由である。これは安易な「ニートバンザーイ!」ではない。社会に経済が消失することなどありえないが、経済システムが社会を主導してきた資本主義社会から、ネット社会は変容される可能性があるのではないだろうか。
「熱狂」主導型社会
未開社会の間欠的にしか行われない祝祭の熱狂が日常化する。現に現在の消費社会はムーブメント(熱狂)主導型となっている。そしてネット社会では熱狂はより純化されている。ネット社会を主導するのは、より純化された「熱狂」そのものである。
この「不特定多数無限大」の力は、経済性への信頼があるか、ないかでなく、経済性という価値そのものの彼岸にあるのだ。だから経済的価値が生まれないわけではないし、社会の秩序が崩壊するわけではない。ただそれはいつも事後的でしかないだけだ。
たとえばボクたちは米をはじめさまざまな作物を食べている。作物の生産は第一次産業といわれいまでは産業の主力からさがっている。これは必要がなくなったわけでなく効率の向上とともに成熟したのだ。第二次産業、第三次産業、情報産業と産業の主力は移っている。再度いえばそれらが必要なくなったわけではない。ならば、純化された熱狂そのものによって、経済そのものが乗り越えられることはないのだろうか。
熱狂が日常化し、熱狂が純化され、熱狂が目的化する。熱狂が経済システムにかわって、社会構造を主導する社会とはいかなる社会だろうか。
バウマンも指摘するとおり、蓄積や一貫性を維持することが困難な後期近代においては、共同体への感情は、アドホックな、個人的な選択の帰結から生じるもの以上ではあり得なくなる。彼を考えるのは、いわば「共同体」から「共同性」への転換だ。すなわち、ある種の構造を維持していくことではなく、共同性−−−<繋がりうること>の証左を見いだすこと−−−をフックにした、瞬発的な盛り上がりこそが、人々の集団への帰属感の源泉となっているのである。このような瞬発的な盛り上がりこそが、ここでいう「カーニヴァル」にあたる。
ここで示される「カーニヴァル化」は熱狂の日常化、純化を表していると言えるだろう。失われつつある社会性の取り戻し(バックラッシュ)である。そしてボクはこのような熱狂を先に示したように、後期近代に限られたものしてではなく、熱狂の系譜としてみる。
「カーニヴァル化する社会」で見失われていることは、熱狂はただ「人々の集団への帰属感の源泉」としてだけあるわけではない、ということだ。たとえば未開社会などの祝祭は、共同体の帰属感を高める儀式であったのだろうが、自分たちではどうすることもできないほどの崇高な自然に対する圧倒感に対する、自然への熱狂=信仰である。熱狂とはただ熱狂としてあり、ただ熱狂へ向かうのだ。
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