なぜ神話への熱狂は必ず回帰するのか

pikarrr2006-09-06

ヘーゲル弁証法ダーウィンの進化論の差異


マルクスは社会は自然と人間、人間と人間の関係において、考えなければならないという。ここで自然は一見、外部のようであるが、外部ではない。マルクスは自然と人間を、共同所有と私的所有で分析する。すなわちマルクスがいう自然とは人間に開拓された自然であり、内部(社会)の一部となった自然である。

このようなマルクスの考えは、へーゲルの弁証法を継承している。ヘーゲル弁証法ダーウィンの進化論の比較で明らかである。これら二つは一見、同じもののように考えられることが大きいが、決定的に異なる。弁証法は、ある対象に対して否定的な契機が対峙し、それが止揚される。ここである対象を自然物とおくと、人間はそれに否定的な契機(加工する)ことで、あたらな生産物が止揚される。すなわち進歩する。このように弁用法的な歴史は進歩史観である。

これに対して、進化論は進歩しない。ある生物に対して、自然淘汰圧がかかることで、ある生物はそれに対応することを強いられる。これはその生物が進歩したように考えられるが、ここで考えなければならないのは、自然とはなにかである。進化論における自然は、マルクスのように人間に管理された自然ではない。人間の認識を越え、コントロールなどできない不確実で突然発生する生物に対して圧倒的な力である。だから生物はただ自然の従うしかない。

自然は不確実で偶然的である。今日は自然圧に対して有用な特性は、明日には最悪の特性である可能性がある。このための生物は止揚することなどできない。ただその場、その場で変化を強いられるだけである。




熱狂によって「リアリティ」という神話は生まれる


人間の歴史がそのまま進化論に対応するということではない。生物進化と人間の歴史の混同は自然主義的誤謬である。重要なことは、外部自然は不確実で圧倒的な力としてあるということである。

そして外部自然は不確実で圧倒的な力としてあるということは、さらに重要なことを示している。人は外部自然を語れないということである。外部自然とはカントのいう認識不可能な「物そのもの」であり、人が認識する自然とはあくまで仮象でしかないということだ。すなわち外部自然は絶えず神話として語られ、そして神話として回帰しつづけるということである。

このような神話が神話として成立するのは、人々がその神話へ熱狂することによる。そして神話への熱狂が社会の「リアリティ」を形成し、社会を再構造化する。そしてそこにその時代の進歩史観は生まれる。




否定しきれない時代の「核」


どの時代にもある否定してもしきれない「核」がある。現代の神話は、マルクスの指摘した貨幣、商品の「物神性(フェティシズム)」である。ボクたちはこれらに熱狂し、そして「リアリティ」そのものである。

たとえば目の前に1億円おかれれば目が眩り、強烈な力を発する。いくらお金など紙切れだ、お金で幸せは買えないなどどいって、この「物神性(フェティシズム)」の魔力は否定できない。このような貨幣の圧倒的な力がボクたちの社会をより深層で支えており、ボクたちの言説はその表層にしかない。しかし貨幣がこのような力をもったのは産業革命前後である。それ以前の社会には、その時代の神話への熱狂としての「核」「リアリティ」があったのだ。

未開社会は自然神の世界である。現代ボクたちが知れえるような世界の分析的な空間的、時間的状況は知りようがない。彼らにとって外部自然は不確実な脅威としてある。それを神性化によって回収するのである。そしてそれが彼らの「リアリティ」である。

このような状況は封建社会の階級制を支えた1神教、そして近代では科学世界という神話であり、資本主義の貨幣、商品の物神性(フェティシズム)、さらに現代のマーケティング、マスメディアは熱狂をめざす神話製造装置であり、ボードリヤールシミュラークル論に繋がる。そして環境問題でさえ神話である。ネットではたとえば嫌韓など神話を大量生産している。そしてネット上で対価なく労働が行われるのが、そこに「まなざしの他者(自分を承認してくれる神的他者)」が捏造される故である。




熱狂は止揚せず、必ず回帰する。


マルクスに外部がないのはすでに「類的本質としての共同体」という進歩史観の神話として回収されているからだ。これはより具体化したのが柄谷の「世界共和国」(ASIN:4004310016)である。柄谷がこれを「超越論的仮象と呼ぶとき、「熱狂される神話」であるということだ。

ではなにゆえに「世界共和国」は熱狂されるのか。柄谷は、格差、テロ、環境問題などの現代の問題への不安からであるという。 これはカントが世界大戦を、マルクス大恐慌を期待したこととつながる。破滅的状況が「世界共和国」という神話への熱狂を生むというわけだ。

現在、「世界共和国」は熱狂を生んでいないが、将来になにが起こるかわからない。だが再度いえば熱狂は決して止揚しない。かりに外部環境の変化から「世界共和国」のようなものが生まれても、歴史はおわらない。熱狂の神話は必ず回帰し、リアリティを生むのだ。なぜなら「熱狂とはただ熱狂としてあり、人はただ熱狂へ向かうからだ。」

今後、人々はなにに熱狂するだろう。
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