なぜグレイゾーンの全面化は「動物化」し「野蛮化」するのか

pikarrr2006-09-08

満足とはなにか。


人々の満足とはなにか。満足が、単に「豊か、自由、平等」でないことは確かである。いま、「豊か、自由、平等」の中にいるボクたちの様々な行為がそれを示している。ただこれらが満足の重要なものであることも確かである。これは、ホッブスから功利主義、そして現代までつづく、「自然状態」の議論につながる。

ボクは満足を、以下のような3項の相補的な関係として考えた。*1

外部(環境)/内部(正義×公平)

環境とは、共同体の外からの影響である。正義とは、共同体秩序を保つような強制的な力、法、国家などである。公平とは、人の満足感であるが、ただこれはホッブスのような個体の満足ではない。人はすでに共同体へ帰属し、繋がりの中で公平感として満足を求める。いわば、共同体の中の自らが承認されるような公平感である。

社会は成員の公平感を満たすよう目指されるのであるが、公平は環境、正義との相補的な関係によって、影響を受けて変化する。すなわちこの三項のバランスが求められる。たた環境という外部は、自然環境であったり、共同体の外に人々の影響であったり、人間の予測を越えて到来する不確実なものでありつづけ、公平は決して満たされることはない。




グレイゾーンの拡大


そのためにひとは、外部(環境)と内部(正義×公平)の間に、緩衝域としてコントロール可能な環境=グレイゾーンが開拓する。

外部(環境)/グレイゾーン(技術開発)/内部(正義×公平)

人と動物の違いは道具を使い事、という考え方があるように、道具(技術)による外部(環境)の開拓は人間起源にさかのぼるものである。人は、道具(技術)によって、不確実な自然を開拓し、予測可能性を高め、リスク管理してきたのである。

未開社会のグレイゾーン(技術開発)とは、テリトリー、狩り道具、火、集落などであり、封建社会では、農耕技術、灌漑技術、兵器であり、近代社会では、数量化、科学技術である。近代社会は、科学技術の爆発的発展は、グレイゾーンを驚異的に拡大し、リスクを下げ、人の生存率、寿命を高め、人口は爆発的に増加したのだ。




「グレイゾーンの死」


たとえばある人が死んで原因が特定されるとき、カミナリに打たれるなど外部環境によって死んだとき(「外部環境の死」)、仕方がないことであり、当然、誰も裁かれない。しかし憎しみからの殺人ならば、それは「公平の死」である。そして殺人を生かした者は「正義」によって裁かれるだろう。そして場合によって、正義によって死刑にされる。これは「正義の死」である。

たとえば天災であると思ったものが公害であり、環境破壊の影響であった場合。たとえば交通事故などの憎悪のともなわない事故死。さらに豪雨による死は、環境破壊からの地球温暖化の影響が大きいのかもしれない。これらは完全に「外部環境の死」とは言えない。さらに「正義」によって裁くことも難しい。これらは、外部(環境)と内部(正義×公平)の間にあるのが、「グレイゾーンの死」である。

グレイゾーンは、外部環境と内部社会倫理の間であり、特に近代以降に科学技術の発展によって大幅に拡大してきた。科学技術の論理は、善悪の倫理とは異なる価値観としてある。

たとえばアガンベン「グレイゾーン」としてあげるのが、アウシュビッツである。国家間の戦争はそれぞれの国家の正義が衝突する合法的な「正義の死」である。しかし科学技術の発達により、原爆のような大量破壊兵器、あるいはアウシュビッツのようなガス室では、「正義の死」というよりも、ただ業務的な処理によって大量殺人が行われた「グレイゾーンな死」と考えられる。

あるいは最近の兵器は、遠く離れたところから、ピンポイントで、遠隔操作される。ただモニターをみてボタンを押すゲームのようなものである。現代は科学技術の発展によってグレイゾーンが全面化し、「正義」が希薄化しているのだ。




グレイゾーン化とマクドナルド化


マクドナルドの特徴は、誰に対しても同じマニュアル化された食事、サービスを提供する。フォーディズムでは、商品の生産はオートメーション化されたが、マクドナルド化では商品(食事)を食べる消費者までも、オートメーション化に組み込まれたといわれる。労働者だけでなく、消費者までも機械化されたグレイゾーンな場である。

人々がマクドナルドへ向かうのは、このようなグレイゾーンな場が居心地が良いからだ。社会性とは他者との関係であり、繋がりであるとともに、拘束でもある。グレイゾーンは他者とのつながり、規範、倫理、正義、善悪が希薄化し、工学的な設計によって場の秩序が保たれている。そして人は意志でなく、他者との関係でなく、ただ設計にしたがうよう、家畜のように食事をする、すなわち動物化する。これはマクドナルドだけではない。街は他者回避としての儀礼的無関心が一般化し、グレイゾーンが全面化している。

このようなグレイゾーンな場の経済は、他者との関係が重視される「贈与互酬関係」よりも、他者への負債を生まない「等価貨幣交換関係」が重視される。すなわち近代以降の科学技術の発達によるグレイゾーンの拡大には、資本主義社会への変容が不可欠である。




グレイゾーン化とリベラリズム


グレイゾーンは、画一した規則を求めることから、一見、全体主義、あるいは国家社会主義を指向するようであるが、グレイゾーンではイデオロギーであり、「正義」は希薄化する。たとえば先のアウシュビッツの恐ろしさは、全体主義国家の命令に対して忠実に行われたということではなく、大量殺人が単なる工学的な操作、オートメーション化されたことにある。そこはユダヤ人への憎悪も、さらには正義の論理も熔解し、木の実をもぎるように自動的に人が殺されたということだ。

全体主義国家社会主義などの国家中心主義が設計するのは、政治的「正義」である。「正義」による拘束は、アウシュビッツや、異民族などを排他することでグレイゾーンな場が生まれることはあっても、社会全般に拡大することはむずかしいのではないだろうか。

グレイゾーンは政治的な設計でなく、そこに善悪が入らない工学設計される。その意味で、政治的「正義」による拘束が弱い民主主義であり、自由と平等、小さな政府、「消極的な自由」を目指すリベラリズムを目指すだろう。




より純粋なグレイゾーンとしてのネット


その意味で、ネットは「正義」を希薄化した工学的に設計されたより純粋なグレイゾーンの場である。現実でははばかられる誹謗中傷が、ネットで平気で行われるのは、そこにどれほどの憎悪があるかでなく、他者は現前せず、匿名で公共に直結できるという工学的な設計にしたがい行為しているからだ。様々な発言は、自己主張でなく、反射的に機械的に発せられる。

さらにはネットは自由至上主義(リバタリア二ズム)が指向されると言われが、実社会の資本主義の豊かさに支えられながら(支えられている故に)、ネット上では著作権など資本主義的な秩序を守ることに無頓着である。これは社会への反抗ではなくただ無頓着なのである。

資本主義的な市場の(等価交換な)工学的設計ではなく、異なる工学的な設計をもつためにそれに従うのである。そこでは倫理、正義が希薄化し、工学的設計に従うだけである。ネットは公的な場か、私的な場か、と議論されるが、グレイゾーンな場なのである。




セカイ系バックラッシュ


たとえば、オタクのセカイ系は、象徴界の機能不全」といわれる。象徴界とはここでは「正義」に近い。ここでもグレイゾーンの全面化によって「正義」が希薄化している現代の傾向がみられる。しかしさらにセカイ系の特徴と言われるのが、自分の振るまいが、世界破滅に直結してしまう。「私的(公平)領域」「世界」が短絡してしまうことにあると言われる。

これを、「外部(環境)/グレイゾーン/内部(正義×公平)」の図式で考えると、グレイゾーンの全面化は、工学的な領域の拡大によって、不確実な世界が予測可能性な社会に開拓されることを意味する。たとえば決まった時間に電車が来る、コンビニに行けば必要なものが手に入るなど、安定した安全な社会を実現する。

しかしこれは私的領域には抑圧的に働く。心は安定を求めながら、また不確実性を求める。心そのものが不確実なものであり、安定な世界は退屈であるからだ。だからグレイゾーンの全面化した社会では、不確実な外部を求めて、バックラッシュ(反動)することが起こる。

社会はグレイゾーン化して安定を目指しているために、これはある種の破壊衝動である。これをフロイトのいう「死への欲動」を見ても良いだろう。だからセカイ系と言われる作品の快楽は外部から到来する異物を残忍に殺戮する場面にあるのだ。




暴力と帰属のバックラッシュ


さらにこのような暴力は、敵を生むことで、逆に見方を生みだし、コミュニティへの強い帰属意識への充実感を持つことができる。たとえば街の地べたに座る、電車の中で化粧するなど私的な行為の反乱は、街がグレイゾーン化し、儀礼的無関心化しているとともに、グレイゾーンに安住する退屈な人々に向けて、「私たち」は違うというバックラッシュである。

さらにこのような傾向はネットで顕著である。少し前にモヒカン族などと呼ばれたハッカーがもつ優越的な独立心は、ネットというグレイゾーンに安住する人々に向けて、「俺たち」は違うというバックラッシュの意味がある。また最近では、誹謗中傷、ナショナリズムなどの祭りもバックラッシュである。祭りは小さな「野蛮な群れ(マルチチュード)」を形成する。

グレイゾーン化とバックラッシュを再整理すると、

①グレイゾーンでは、いつも変わらず、他者回避されたサービスで人々は動物化し安らぐ。
②それとともにグレイゾーン化した安定の反復は、退屈、閉塞を生む。
③閉塞を破るよう暴力的な行為を行う。
④暴力を承認する「小さなコミュニティ」への帰属を感じる。




グレイゾーングローバル化の排他性


このようなグレイゾーン化をグローバル化につなげると、近代の世界資本主義化から、現代の情報化社会によるグローバル化によって、資本主義リベラリズムによる世界のグレイゾーン化(「帝国」化)が進んだ。

グレイゾーングローバル化は工学的秩序による経済の自由競争である。国際的な「正義」は国連に求められるのだろうが、行使力がなく機能していない状況である。規制のない自由競争は、格差を生み出す。先進国は後進国の自然と労働力をグレイゾーンとして開拓し、搾取する。そしてテロリズムなどがバックラッシュとして起こっている。




動物化「野蛮化」するポストモダン


グレイゾーンの全面化による経済の自由競争は、国内でも格差問題を生んでいる。しかし「グレイゾーン化の排他性」は、ブルジョアジープロレタリアート、あるいは先進国が後進国を、強者が弱者を搾取するという経済格差による二項対立に本質があるわけではない。

もし人間誕生の原初の場面があると、「はじめに言葉あり」、または「はじめに道具あり」があるだろう。言葉は「野蛮」な人を他者との関係に規定し「人間化」する。道具は人個体の力を増幅することで他者回避した動物化する。そして近代以降、科学技術の繁栄は、グレイゾーンを全面化し、言葉の次元を弱め、人は動物化し、そして「野蛮化」している。

これは、グレイゾーン(技術開発)による動物化という人間疎外論であり、疎外され従来の正義とは異なる外部から回帰(バックラッシュ)する「野蛮化」という暴力的な熱狂である。

*2

*1:人間にとって平等であることは「自然」なことではない。 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060825

*2:画像元 http://helicopt.hp.infoseek.co.jp/aftermath.html