「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/stiegler.html
1)一九世紀の産業革命を経験した資本主義の二つの大きな帰結
①「生産における貧困」
プロレタリアの登場(プロレタリア化(マルクス))。生産にかかわる知が機械に移行して、もはや自分の「作る知」によって生産を行わず、機械に仕えるばかりになった。生産者の身体的行動は機械の自動運動へと変形され、個々の生産者の「作る知」は奪われる。
②「利潤率の逓減」(マルクス)
一九世紀の終わりになると資本主義は機械化のために生産性が拡大し、社会が生産物を消費しきれなくなる。資本主義は危機に陥り、第一次世界大戦に至る資本主義諸国間の戦争として現れた。
2)二〇世紀冒頭にアメリカ型資本主義が見いだした利潤率の逓減に対する解決法
プロレタリアが消費者となる。生産者とは同時に消費者であり、生産性を高めることでこの消費者としての生産者の収入を改善しなければならないという考え。このモデルによれば、全ての人が勝ち組となる。有名なフォードのT型は、それを生産する労働者をターゲットにしたもの。
一九世紀に目標とされた生産性の向上から市場の拡大、世界規模の市場拡大のヴィジョン、新しい種類の帝国主義。
大衆消費へと消費者の心性を条件付けて準備することでフォーディズムを補完する。
一九〇五年から一九〇七年にはアメリカ映画は産業モデルに基づいて発達を始め、一九一二年には映画の戦略的重要性が政治においてすでに議論されていた。映画産業の発達を通して、一九三〇年代には「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」と呼ばれることになった行動様式を、アメリカ国内および世界規模でプロモートしていくということが起こった。
「産業的時間対象」(それ自体のなかに時間性を備えた産業製品、「時間のパッケージ品」)による社会のコントロール
映画は、文学、音楽などの伝統的な象徴表現よりずっと大きな模倣喚起力を持ってる。レコードという音楽的産業品とともに更に発達し、続いてラジオ、そしてテレビの登場によって具現化される。さらに、今日では、携帯電話などにより、人びとの生活の隙間の時間までがこうした社会的コントロールの対象となっている。
五〇年の間にほとんど全ての個人がテレビのコントロール下に入った。また、平均の視聴時間も三時間半に及び、仕事、通勤、睡眠以外のほとんど全ての「時間」がテレビの前で過ごされている。
③マーケティングの登場
資本主義の真の問題は生産ではなく販売にあるという考えに基づいて、販売するためには大衆の欲望、すなわちリビドー・エネルギーを、親や恋人、宗教や政治といった理想的な「升華」の対象から、商品のフェティシズム(マルクス)にもとづく消費の対象へと振り向け、固定しなければならない。
3)「象徴的貧困」―「生きる知」の喪失
①「象徴的貧困」の進行
自分自身のリビドーを、固有の「欲望」として表現し構成していくための象徴的リソースを人びとは失っていく。
テレビ番組やレコード音楽の「産業的時間対象」を通して自分の「時間」を構成するようになる。自ら想像したり、想い出を心に描いたり、自分自身の固有の欲望を生み出したりする「生のエネルギー」、すなわちフロイトの用語でいう「リビドー」を、文化産業に吸い取られていく。
②「生きる知」の喪失
消費者にとっての「生きる知」は、もはや自分の生の実地の経験によってではなくて、前もってきめられたマニュアルや、取るべき行動を定めたマーケティングによって決定される。個人および集団における、象徴的苦しみ、「生きにくさ」とを生み出す。「生きている」という存在感覚の喪失がある。
③「リビドー・エネルギーの逓減(ていげん)」
自分の唯一の存在としての単独性を投影できるような対象だけを「欲望の対象」として求めるものが、ハイパー産業社会においては、個は文化産業が流通させるイメージを取り込んで内面化する。内面化されるイメージはますます標準化され、個人の過去は全ての人にとって同じようなものとなってしまう。ひとりの個人には固有の「過去」などもはやない、産業的な「過ぎ去り(=流行)」しか存在しない、ということになる。・・・資本主義とともにグローバル化されたブランド、製品の論理による人びとの同一化、個体化。
個人が標準化されたものを消費し始め、標準化された過去を取り込むことで、自らの単独性を失うと、それと同時に対象の単独性に対する感性をも失ってしまう。リビドーがリビドーであるのは、かけがえのない単独性を求める限りなので、リビドー自身が破壊される。
「過去把持」(「産業的時間対象」によって「時間」を生み出し、共通の「過去」を人びとの意識によって構成させること)、「記憶のコントロール」
テレビだけでなく、携帯電話などの新たなコミュニケーション装置の普及によって、あらゆるものが常時コントロールされるようになっている。
⑤「アクティング・アウト(決行)」
文化コンテンツによる大衆のリビドーの捕捉は、究極的にはリビドー自体の破壊にまで及ぶ。様々な事件や凶行として現れる「アクティング・アウト(決行)」を招いている。
暴力的・犯罪的行為や凶行のもとには、自分は生きているのだという、存在感覚の喪失がある。消費者はマーケティングの標的となっていると、自分が自分として存在しているのだという感覚を失っていき、この実感の喪失ゆえに、自分は存在しているのだということを逆に証明せねばならなくなる。自己存在の証明のために、凶行に及ぶような行動をとるようになる。
フランスの暴動で現行犯逮捕された少年たちは、テレビで取り上げられ、社会で何がしかの扱いを受けるためだと、政治体制を覆すためでなく「存在する」ためにこそやったという。
政治のレベルでは、「秩序」や「権威」などが声高に要求されるようになり、「政治ポピュリズム」の下地がつくられるようになる。「政治ポピュリズム」自体が「産業ポピュリズム」によって準備されている。
リビドーはどんどん破壊されるために、資本主義はもはや「欲望」ではなく、「衝動」に訴えるようになる。テレビ番組やハリウッド映画は、正義、理想、英雄のような「欲望」に訴えかけるのではなく、性的表現や暴力、さらにリアリティ・ショーのような模倣行動を引き起こすような番組を通して、直接的な「衝動」に訴えかけている。
4)「象徴的貧困」からの脱出
資本主義の危機に対する解決となる新しい産業モデルを作り出すために、「消費」と「生産」の対立ではなく、知識テクノロジー、精神のテクノロジーによる新たな個体化のプロセスにもとづいた新しい社会化モデルを提案していく。テレビやコンピュータ、携帯電話などの技術は、まったく新しい個人の個別化を生み出すこともできる技術でもある。
消費が心を苦しませ、中毒を引き起こすので消費を望まないという人びとによる運動。
フランスの哲学者。デリダの弟子。「「技術」が「意味環境」をつくる「世界」において「ヒトが在る」とは何か、技術とテクノロジーの存在論」を主題にしているとのことです。これがフランス人考察とは思えないほど、いまの日本にもリアルですね。東のオタクの「動物化」、北田の2ちゃんねるの「ロマン主義的シニシズム」などに繋がります。あのフランスの暴動さえ、「祭り」の次元にあるという指摘は驚きます。
特にボクが共感するのは、 「生きる知」の喪失です。「消費者にとっての「生きる知」は、もはや自分の生の実地の経験によってではなくて、前もってきめられたマニュアルや、取るべき行動を定めたマーケティングによって決定される。個人および集団における、象徴的苦しみ、「生きにくさ」とを生み出す。「生きている」という存在感覚の喪失がある。 」「消費者はマーケティングの標的となっていると、自分が自分として存在しているのだという感覚を失っていき、この実感の喪失ゆえに、自分は存在しているのだということを逆に証明せねばならなくなる。」
流動性の向上による不安を言われる現代で、存在感の喪失と閉塞が的確にあらわしているのではないでしょうか。これはマーケティングという情報の氾濫、流動性そのものが人間を疎外するという技術疎外論です。しかし「象徴的貧困」が東の「動物化」に近いとして、オタクの豊かさには感心させられます。オタクは「動物化」というよりもコジェーブのいう日本伝統文化のスノビズムの継承者ではないか、と思ってしまいます。
*1