なぜグレイゾーン化は熱狂を生むのか

pikarrr2006-09-12

グレイゾーン化と予測可能性の向上


技術(テクネー)とは利便性を目指すのでなく、「自然」の開拓であり、開拓される「自然」=無垢の制作=グレイゾーン化である。

グレイゾーン化とは、世界の不確実性を予測可能性へ転換すること、リスク管理することである。たとえば狩猟文化から農耕文化への変更は、自然を開拓管理することで、食料の入手の予測可能性を高めた。さらに蓄積を可能にすることで、不確実な飢饉へ対応することが可能になる。このようなグレイゾーン化は本質的に対象の還元性をもつ。還元することで、反復を容易にする。

特に近代以降、この還元性は「数量化」の徹底によって行われる。数量化は質を量の等価交換関係に還元し、質を排除する。そして数量化は反証可能性という力を生みだし、反復回数が向上することでより確実なプラグマティック(実証的)な成果を期待することができる。その方法が正しい、間違いというよりも、どれだけ実働的であるかということ。それを見いだすためには同じ事を反復し、フィードバックすることにある。




グレイゾーン化と熱狂


グレイゾーン化は熱狂を生む。グレイゾーン化は、「自然」の開拓するのではなく、開拓される「自然」(無垢)そのものを創造する。ここに開拓されるべき新たな自然があるという発見へ人々が向かう熱狂である。そして熱狂と共に新たな人間像を提示する。たとえばケータイが開発者の意図に反し、あたらなコミュニケーション場という「空間」の創造に人々が群がり(熱狂し)、急速に広まったのだ。

このような数量化が人間社会への展開される場合、人間そのものを数量化することは望まれない。人間には数量化できない「尊厳」がある。このための心身二元論が生まれる。数量化可能=機械的身体と数量化不可能な心(コギト)の二元論である。

これは、グレイゾーン化する心とグレイゾーン化される身体として示される。たとえば産業革命後に生まれたプロレタリアートとは、産業奴隷=機械化された人間ではなく、みずからの心が身体という労働力を貨幣による等価交換へと提供し、機械化する。そしてこれは、労働者(プロレタリアート)層の誕生という社会的な熱狂のなかで生まれた新たな人間像である。プロレタリアートは疎外され前に熱狂がある人々はそこへ向かったのだ。

これは、熱狂という心(質)と、数量化による管理される身体の対立に繋がる。マルクスなど疎外論では、管理側が指摘されるが、この対立はまた相補的に作用する。いわば革命も管理に対する熱狂であり、対立であるとともに、補完しあっていたといえる。そのようにしてグレイゾーンは強化されていくのだ。




近代以降技術革命の熱狂とグレイゾーン化

フォーディズム・・・ギルド解体、プロレタリアート
 熱狂:大量の労働者(プロレタリアート)の発生
 グレイゾーン化:熟練技、暗黙知のデーターベース化、身体の機械化、「生産の貧困」

マーケティング・・・生産者(プロレタリアート)から消費者へ
 熱狂:マスメディア(映画、ラジオ、テレビ)の登場、アメリカ文化浸透、豊かさ、消費の楽しさ
 グレイゾーン化:豊かさとともに画一な消費者へ。心の画一化。象徴の貧困、動物化

サブカルチャー・・・生産者から消費者から発信者へ。
 熱狂:若者文化の登場、ロック、パソコン、オタク。消費+創造性による個性の差別化。
 グレイゾーン化:サブカルチャーマーケティングは相補的な関係によって市場経済を支える。

④ネット・・・生産者から消費者から発進者へ。
 熱狂(ビジネス):消費による個性の差別化の強化。さらにアフェリエイトなど広告者に。マーケティング強化、必要なものを必要なときに。ロングテール
 熱狂(コミュニティ):消費による個性の差別化から他者の承認による差別化へ。繋がりの社会性。
        消費の脅迫性から発信(繋がり)の脅迫性へ。虚像のつながり。より身体性から乖離。身体性をもとめて情動的なつながり(祭り)へ。
 グレイゾーン化:環境管理技術;アクセスの記録などプライベート情報の管理、Web2.0




熱狂と環境管理技術


マーケティングが目指すのは、熱狂の管理である。そして熱狂は多くにおいて、管理を越えていく。たとえなマクドナルドの椅子の硬さの話(マクドナルドは椅子を固くすることで、客に気がつかないように長居をさえないようにしているというマーケティング法)は、回転率をあげるという熱狂の管理であるが、高校生などの放課後の居座りの熱狂は管理を越えていく。それがまたグレイゾーン化を強化する。ネットにおけるWeb2.0もまたネット群衆の創発性の管理である。ここには熱狂とグレイゾーン化の相補的な関係がみられる。

たとえばコンピューターウィルスとセキュリティの関係も相補的である。コンピューターウィルスのばらまきは愉快犯である。ハッカーにはネットそのものが開拓されるべき自然(無垢)と現前化する。それは「そこに山があるから登るのだ」ということだろう。ここに自然への熱狂があり、セキュリティーが強化されるから、ウィルスはつくられるという関係にある。




「象徴的貧困」ポピュリズム


たとえば「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌」 ベルナール・スティグレールhttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911)では、「象徴的貧困」ということはマーケティングなどのグレイゾーン化による個性が搾取される閉塞が、ポピュリズムという「衝動」的な熱狂をうむと理解することができるが、全体に搾取論的すぎるのではないだろうか。グレイゾーン化(管理)と熱狂はもっと相補的、共犯的なものである。

さらに最近のオタク、ネット上のパーソナルな多くの発信は、「象徴的貧困」に向かっているといえるだろうか。 ポピュリズムという「衝動」的な熱狂へ向かう傾向は否めないが、またそこに新たな創造的な熱狂も見いだせるのではないだろうか。

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