フーコーの権力論とグレイゾーン化
歴史家としてのフーコー
精神分析へのフーコーの批判がある。フーコーは精神分析的な人間構造の絶対化に対して、歴史相対化する。たとえばエティプスコンプレックスは人間そのものに根源的なものでなく、近代的な家庭主義であると。(ラカンなどの精神分析において、エティプスコンプレックスは絶対化されているわけではなく、たとえばラカンは去勢の不完全さ、父の不在をエディプスの近代的な問題と見る)
そして逆にフーコーへの批判として、様々なものを近代へ還元しすぎるというものがある。たとえばパノプティコンの構造は、宗教がもともともつ構造、また精神分析の「大文字の他者」の構造であり、近代のみで語ることはできない。あるいはアガンベンは生権力をギリシャ時代まで射程を広げるなど。
フーコーを読んだときの圧倒とともに、なにかぬぐいきれない違和感の一つがこのような近代的なある装置への強く還元させることである。その意味で、以下の「歴史家としてのフーコー」ウィンドシャトルは、かなり手厳しいいフーコー批判になっていておもしろい。
全体としてのフーコーのねらいは、自分が調査した施設――精神病院、病院、監獄――の歴史が、現代社会を支配する当局の持つ権力の一般形態のモデルとなっていることを示すことだった。こうした施設をコントロールする科学/学問――精神医療、臨床医学、犯罪学――は人を客体化する「視線」を確立した。それはすべてを見通す眼であり、人々を研究対象にしてしまう。
これによって、当局は法を制定することから、規範の動因、あるいは道徳の押しつけへと移行するようになった。フーコーのねらいは、現代生活のほとんどの側面も、社会科学とそこから導かれる専門実務の圧政下にある、というものだった。学校の内部でも家庭の内部でも、工場でも第三世界の植民地でも、人々は自分が想像しているほど自由ではない。その人生は、二百年以上前に現代が誕生したときの概念によって支配されているのだ。
だが他の歴史家がフーコーの説明を細かく検討してみると、歴史的な記録はこの主張にしても、他の哲学的な論点にしても、フーコーの主張を裏付けるものはほとんどないという結論に達している。
歴史家としてのフーコー キース・ウィンドシャトル
http://cruel.org/other/foucault.html
「神様が見てるから悪いことをしないようにしよう」「閻魔さまが見てるから、地獄にいかないようによいことをしよう」という発想はまさに、「監視の可能性」→「規範の内面化」→「個人の規制」という社会統治の方法であって、これははるか昔から存在していたし、時の権力が昔から使ってきたものだ。結局、それの有無だけでは何も言っていないに等しい。あとはそれをどう使ったか――テクノロジーとの関連で話をするのかな。(山形)
このような歴史的な証拠との齟齬がフーコーの理論そのものの価値をおとしめるとは思わないが、山形がいうように、より大きな射程でとらえる必要があるのではないだろうか。
「排他の原理」としての規律訓練型権力
生権力・・・生に対する権力の組織化が展開する二つの極
①規律訓練型権力、人間の身体の解剖−政治学・・・規律を特徴づけている権力の手続き
機械としての身体、効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み
②人口の生−政治学・・・調整する管理
種である身体、生物学的プロセスの支えとなる身体、繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿
「性の歴史Ⅰ 知への意志」 ミッシェル・フーコー P176
フーコーの権力論のベースにあるのは、外部/内部の「排他の原理」だろう。たとえば「規律訓練権力」の例としてあげられるパノプティコンのような「まなざしの内面化」は本質的に神の構造である。ある「正しさ」があり、それを内面化するためには、大文字の他者(神)による保障(まなざし)が必要となる。「正しさ」とは内部の論理であり、内部への帰属を意味づける。これは言語を習得するレベルで行われるために、主体の形成に根源的に作用する。
たとえば「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」のように科学、数学でも同じである。科学の「正しさ」はなにによって保障されるのか。内部に帰属すること、そして内部とは大文字の他者(神)によって支えられる構造をもつ。そして内部への帰属ということは、必然的に境界を生み、すなわち外部への排他によって支えられる。
フーコーが言及する近代としての「規律訓練型権力」は、従来、宗教などによって行われていた内部と外部の境界を科学的方法論によって補強することを意味する。科学技術のカテゴライズ、データーベース化等のサイクルは、より大きな文化圏として、またより複雑に主体それぞれを内部の論理によってを意味づけていく。
生政治とグレイゾーン
しかしまた科学技術の発展は、このような外部/内部の「排他の原理」を変容させる。複雑に主体それぞれを内部の論理に意味づけるのと並行して、情報処理技術の発達により、個体は均質化した個体群の集合、純粋な身体群として処理される。それが「生政治」である。
この次元では強化された意味付けの次元は希薄化する。そして「連鎖的なメカニズムの網の目」としての広がりの中で、誰かの意図のみでコントロールすることは不可能である。これがグレイゾーンの拡大である。
グレイゾーンはアガンベンも指摘するように近代特有ではない。奴隷の身体が純粋な身体(ホモサケル)として処理されたとき、そこには権力者の意図が存在した。しかし近代のテクノロジーが「純粋な身体」としての処理を全面化している。
外部(環境)/グレイゾーン(科学技術)/内部(正義×公平)
科学技術・・・収集→カテゴライズ→数量化→データーベース化→法則化→シミュレート→収集・・・
権力と快楽の螺旋運動
しかしこのようなグレイゾーンの全面化は、意味の次元が消失することを意味しない。これら規律訓練と生政治は相補的に進む。そして近代のグレイゾーンの全面化は、「知への意志」という熱狂として、人々が自ら生みだしていく。
事実は、それが、快楽と権力という二重の推力=衝動をもつメカニズムとして機能しているということなのだ。質問し、監視し、様子を窺い、観察し、下までまさぐり、明るみに出す、そういう働きをする一つの権力を行使する快楽がある。そして他方には、このような権力をくぐり抜け、その手を逃れ、それをたぶらかし、あるいはそれを変装させてなければならない故に興奮するという快楽がある。
自らが追い回している快楽によって侵入されることを諾(うべな)う権力と、そしてそれに対峙するようにして、自らを誇示し、相手の眉をひそめさせ、あるいは抵抗するという快楽の中に自らを主張する権利がある。籠絡(ろうらく)と誘惑であり、対決と相互的補強である。
親たちと子供、大人と少年、教育者と生徒、医師と病人、精神病医師とそのヒステリー患者ならびに性倒錯者たち、彼らはすべて、十九世紀以来、このゲームを演じ続けているのだ。これらの呼びかけ、これらの逃げ、これらの循環的煽動は性器と身体のまわりに、越えるべからざる境界をではなく、権力を快楽の無限に繰り返される螺旋を張りめぐらしたのである。
法とは非常に異なる装置が、連鎖的なメカニズムの網の目によって、特殊な快楽の増殖と変種的な性的欲望(セクシャリティ)の多様化を保障しているのだ。
「性の歴史Ⅰ 知への意志」 ミッシェル・フーコー P58-63