近代科学を超えて 村上陽一郎

pikarrr2006-09-21


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はじめに 

科学のなかである種の「発展」が起るとき、その「発展」に対して必ずしも「データ」が中心的な役割を果たしていないように思われる事例が多い・・・科学もまた全時間・空間を縦貫し横断して成立するような「離陸」した存在ではないとすれば、科学に普通に与えられている客観性や普遍性はどう解釈したらよいのか。




Ⅰ 科学のなりたち

近代科学が「ベーコン主義」、すなわち、直接事実に当たれ、予め仮設的な理論や秩序の存在を想定するな、というスローガンを標榜する。P22


神の自然は、複雑さではなく、単純、簡潔さを選んだのであろう、とコペルニクスは考えた。・・・自然界の構造を定式化するのに、できるだけ簡単な形に仕上げる、もしくは、その定式は簡単な形になっている、という信念は、われわれにも前提とされており、コペルニクスと同断である。P25


第一に、われわれの科学は、少なくともいくばくか、経験的な「事実」に先立つなにものかによって支えられている、ということであり、第二に、「事実」「現実」に直接的に密着しようとするところには、科学の体系はない、ということである。そして、この二つのことがらは、「ベーコン主義」・・・に対する反論の根拠として十分であろう。P27-28


理論は「即事実性」を備えているのであり、「超事実的」である。「事実先行性」と言い換えてもよい。P32


「科学は事実を離れて成立する」




Ⅱ 科学と価値

自然科学は、人文科学や社会科学と違って人間の価値判断から解放されているという特徴をもっている。・・・自然科学のもつ「没価値性」こそが、今日自然科学の、全地球的な普及、つまり歴史的な時間と空間とを超越した全面的な普遍性の基盤となるものだ。P56-57


すべての「事実」は、人間によって、帰納力と演繹(えんえき)力との双方を備えたものとして把握されたときに、「事実」としての機能をもつことになるのであって、その帰納力と演繹力による双方向への「伸び」は、歴史的な時間と空間との関数関係によって流動するものと考えられる。P63


「科学は価値と意味の世界をもつ」

クーンがその著「科学革命の構造」「範型(パラダイム)」と呼んだのは、強力な支配力を獲得した理論系のことであり、そのような理論系のなかでの科学的な仕事は、「理論証明」的な性格、もしくはその理論系の適用範囲の探求という性格を備えているものとなる。クーンはそうした活動を「通常科学」と名づけた。その種の活動は、かなりはっきりと決定された手続きや規則に従って行われ、一種の「パズル解き」である、と考えられている。・・・このような「通常科学」では「教科書」が大きな意味をもってくる。P86-87


「意味の世界の組織換えが科学的創造性である」




Ⅲ 現代科学の境位

「科学的である」ということの定義として、「分析的である」ということは、「現象を、ただ現象としてとらえるのではなく、その現象を、それを成り立たせている何らかの要素群に分解し、その要素群が、時間−空間の中でどのように振る舞うか、その有様を記述することによって、もっと現象を説明する」ということになろう。P107


医学は、その出発点において、患者の苦しみを取り除くという大前提を忘れるわけにはいかない。そして、「苦しみ」は、科学的分析からは決して検出されない。「苦しみ」は、人間という一個の全体的な存在の主観的側面としてある。もし「先後関係」という概念を使うとすれば、つねに「苦しみ」が先にあり、その科学的分析は後である。P113-114


「岐れた諸科学は再び集まる」

自然科学(のみならずすべての知識体系)は、「原理的には」、物理学だけで世界を記述し尽くされるとする発想である。第一に、素粒子−原子−分子−高分子−細胞−個体−社会−宇宙といった自然の位階構造の存在と、第二に、高位の現象を律する法則と概念とは、それよりも一段下位の位階に属する法則と概念に「原理的には」置換できるという還元主義とが前提とされている。P118


分析的思考法の根幹をなす原子論を、近代の「物理学帝国主義と具体的にそう関わっているのか。第一に、原子論の前提として空間は、力学的世界観にとって最も重要である。・・・第二の、偶然的性質を本質的性質に還元する、という原子論の特徴。・・・第三の擬人主義という特徴は、「科学的である」ということの別名であるかのようにさえなってしまった。P125-126


近代科学は目的論的説明や機能的説明を排除し、因果的説明と分析的思考に頼ることよって、価値体系から解放され、自由かつ中立の立場を手に入れたと考えられた。そうした考え方はそれ自身が紛れもなく一つの価値体系であることを無視している点で明らかに間違っている。P131


「事物を岐けて行くとどうなるか」

人間と自然との間に区別を立てるという知的習慣はヨーロッパの母胎の一つであるギリシアをはじめとして、多くの思想圏で共有していなかった。ギリシアでも、人間と自然との関係は、たかだか、アナロジーによって対比されることはあっても本来峻別されるべきものではなかった。

自然は人間のために創られた棲家であり、神の似像として象られた人間は、自然から切り離された特別の存在である、という確信こそ、ヘブライズムからキリスト教を通じて一貫して流れる一つの知的習慣であり、一方においては、観察する主体としての人間と、観察される対象(客体)としての自然という、近代科学の基本構造を導く大きなモチーフとなったことは、しばしば指摘される通りであろう。P136-137


「科学では人間は「私」だけになる」




Ⅳ 科学技術の前途

すでにニュートン力学は一七世紀末に完成され、もはや、新しい理論体系、新しい原理の探求はひとまず終わったと考えられた一八世紀前半の啓蒙主義時代には、なすべき仕事は、前代に構築された原理、理論体系を、いかに「現実」と照合し、「現実」の問題の解明に応用し、利用して行くか、というきわめてアクチュアルな、と同時に、きわめてプラグマティックな局面に集中されることになったのである。・・・「知」つまり「科学」は、啓蒙主義時代に入って、ようやく、神を讃える神聖な営みから、現実の問題解決のための「世俗的」な営みへと、引きずり下ろされる式を迎えたのであった。P156


「科学は一本道を歩まない」




Ⅴ 科学の可能性

キリスト教では、神の理性が自然界を支配し、統括している、という信念がある。他方、人間は、神の似像として神に造られた存在であり、それゆえまた、人間の備える理性もまた、不完全ながら、神の理性の擬似的コピーである。すると人間の理性は、神の理性による自然界の支配把握に重なることはできなくても、少なくともある程度それに近いことはできる、と考えられる。・・・こうした楽観主義は、自然科学発展のための最も重大な契機であろう。

自然を外側から全能という形で支配・制御・統括・把握するのが絶対者たる神なのである。しかも人間は、その神が自然に対してもつ「視座」と同じところに自分の眼をおいて、そこから、自然を眺め、把握し、場合によっては制御することのできる存在ということになる。・・・眺められている自然と、眺めている人間との間の視座移行、もしくは対立的な分離を認めることができる。・・・自然は、人間の前に投げ出されたものであり、人間は、主体としては、その投げ出されたものに挑む存在である、という主観と客観との分離は、・・・キリスト教思想のなかに含まれていたことはたしかである。P185-187


「東西の思惟構造の差から何が生まれるのか」

「局地」的な近代西欧の科学技術が、今日「普遍」的で絶対的な意味をもつかのように、地球上に拡大し、かつ拡大しつつある最大の理由は、その現実への「有効性」にあるが、その「有効性」を支えているのは、その体系が、人間の認識活動のある一面と密接に結びついているからにほかならない。P204


西欧近代科学が、自らに課した絶対的なテーゼは、ものごとを、時間、空間の枠組みのなかに、できる限り詳しく記述し、描写することであった。・・・西欧近代科学の知識体系が、現実の問題解決に「有効」である理由が、このような「時間と空間内での事象の記述」に、ほとんど間然するところにないほどに見事に成功しところにあることは明かであろう。それは、要素主義的記述であり、還元主義的発想である。P205


「新しいパラダイムを求めて」


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