なぜ「熱狂」は語れないのか

pikarrr2006-09-22

近代自然科学と経済

近代自然科学の特徴は、要素還元主義にある。(空間(時間)的、偶然性の排除、非擬人主義)ここには、自然の構造は簡単な形に定式化できる、という信念が隠されている。またヘブライズムからキリスト教における、主客分離(観察する主体(人間)と観察される客体(自然)の影響がある。

このような「局地」的な近代西欧の科学技術が、「普遍」的で絶対的な意味をもつかのように、地球上に拡大した最大の理由は、現実への「有効性」にある。その「有効性」を支えているのは、時間、空間の枠組みのなかに、できる限り詳しく記述し、描写するという人間の認識活動と密接に結びついているからである。


「近代科学を超えて」 村上陽一郎より http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060921

近代科学の成功が、現実への「有効性」にあることには同意であるが、それを「人間の認識活動との密接な結びつき」に求めるのは、なぜ長い人類史において近代なのか、という問題がうまれる。

仮に科学の持つ「時間、空間の枠組みにより要素還元主義」が人間の認識能力と結びつくとしても、それは人間は道具をもつというレベルでの話ではないだろうか。近代に科学が成功した要因としては、マルクスのいうように、経済活動と関係を抜きには語れないだろう。

やがて一二五〇年から一三五〇年の間に、理論面はともかく実際の応用面で、著しい変化が現れた。この一〇〇年はたぶん、一二七五年から一三二五年までの五〇年に絞り込めるだろう。この時期に、ヨーロッパで最初に機械時計と大砲がつくられたのだ。これらの装置の出現によって、ヨーロッパ人は数量的に把握できる時間と空間という概念を直視せざるを得なくなった。ポルトラノ海図、遠近法、複式簿記・・・三種類の技法の現存する最古の例が、いずれも前述した五〇年間ないしその直後に作られたことは確実である。・・・ものごとを数量的に考える兆しが現れたのは、西ヨーロッパの人口と経済成長が最初のピークに達した一三〇〇年前後の事だった。


「数量化革命」 アルフレッド・W・クロスピー (ASIN:4314009500)

十九世紀末において、偉大なイギリスの歴史をふり返ってみると、一七六〇年から一八二○年にいたる時期、・・・イギリスは大規模な産業革命を経験した。いま流行の「経済成長」ということをあてはめてみると、一七六〇年までのイギリスの経済の進歩や成長はまことに遅かった。つまり折れ線グラフにすると、折れ線は一七〇〇年から一七六〇年までは低く、そしてほとんど平らなのである。むろん、一七六〇年以前にも工業はあった。簡単な機械や道具をつかい、分業で能率をあげるという方法は、一五世紀なかばの印刷術の発明でわかるように、ルネサンス時代にもさかのぼることができる。

折れ線グラフは、じつはイングランド銀行の手形割引収入をあらわしている。一七六〇年ころから折れ線は急上昇し、たちまち十万ポンドに達し、・・・十九世紀にはいると、この数字はとてつもなく上昇をとげる。この原因は新しい機械の採用が連鎖反応的に行われ、短期間に背さんが急増したことにさしあたり求められる。・・・こんなことは人類がはじめて経験することであった。産業革命の開始とはさしあたりこういうことであり、一般的に「資本主義経済」が、はじめて本格的な姿をあらわしたことを意味する。


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熱狂という「大きな時代の空気(コンテクスト)」



技術的なパラダイムシフトは短期間で起こるようである。このような短期間に変容するダイナミズムこそが「熱狂」だろう。

ボクはビートルズが好きで、フィルムなどでその人々の熱狂を見ることができるが、これは「熱狂」とは違う。「熱狂」ビートルズに還元できない。名もない者達も集うイギリスに起こったロックミュージックのムーブメントとであり、さらにそのようなムーブメントを支える技術革新であり、これらを含めて「大きな時代の空気(コンテクスト)」である。

だからパラダイムシフトを振り返るときに、その短期間になにが起こったのかと疑問がおこる。そして多くにおいて、「天才のマジック」へと還元されてしまう。コペルニクスであり、ニュートンであり、アインシュタインであり、ビートルズであり、マルクスであり・・・これらは、人物名というよりもムーブメントとしての熱狂の名である。




「自然」産出としてのパラダイムシフト


ボクは、このような「熱狂」「自然」の産出であるといった。あるパラダイムシフトがそこに「自然(無垢)」を創造する。これは、方法論の開発である。日常が、新たな「自然(無垢)」への変容する切り口である。そしてこの開かれつつある「自然(無垢)」の前で人々の欲望が想起され、殺到するのである。

技術(テクネー)とは利便性を目指すのでなく、「自然」の開拓であり、開拓される「自然」=無垢の制作=グレイゾーン化である。

グレイゾーン化は熱狂を生む。グレイゾーン化は、「自然」の開拓するのではなく、開拓される「自然」(無垢)そのものを創造する。ここに開拓されるべき新たな自然があるという発見へ人々が向かう熱狂である。そして熱狂と共に新たな人間像を提示する。たとえばケータイが開発者の意図に反し、あたらなコミュニケーション場という「空間」の創造に人々が群がり(熱狂し)、急速に広まったのだ。


なぜグレイゾーン化は熱狂を生むのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060912




「熱狂」は語れない


ボクたちの卑近な熱狂は、インターネットである。Windows95をきっかけに、人々が、そして技術開発者がネットという「新大陸」(という無垢な自然)へと乗り出し、短期間で世界を変えてしまった。このダイナミズムはブログであり、mixiとまさに続いており、ボクたちはそのただ中にいる。

ボクたちはこの熱狂を語ることができるだろうか。たとえば東海村放射能漏れの事件があったとき、ある九州あたりの大学に通うオーストラリア人留学生の母親が、放射能漏れのニュースを見て、息子を帰国させたというニュースをみた。報道とはそのようなものである。あるフレームを切り取られ、それがすべてのように語られる。

これは単にマスメディアの弊害ということでなく、「フレーム問題」そのものである。コンテクストとはなにか、いかに共有されるのか。それは、そのようなマスメディアの切り取りも内包したところにコンテクストである。

「いまはいつか時代が評価してくれるだろう」という言葉があるが、熱狂を語ることは、後世に事後的にしか客観的に語れない。そしてその客観はその時代の価値による一つの物語として語られるが、そこには「熱狂」そのものは失われている。だからといって熱狂が幻想ということではなく、人は「熱狂」にただ巻き込まれることで生きるしかない。