ラカンと認知科学

pikarrr2006-09-23

考える名無しさん
ぶっちゃけ、ラカンなんて学んでも雑談以外にメリットはない。若いんなら、そんなもんに貴重な時間を使わないでほしい。認知科学分野からみたら、ただの与太話にすぎないんだから。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
認知科学は、情報処理の観点から知的システムと知能の性質を理解しようとする研究分野。1950年代にアメリカの心理学者達によって興されたとされるが、より中立的に言えば、同時発生的にそれぞれの分野で人の心に対する研究の必要性が高まったと言える。

心理学-認知心理学人工知能-ニューラルネット言語学-心理言語学生成文法認知言語学 人類学、神経科

Wikipediaから引用 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%A7%91%E5%AD%A6
簡単には心を「科学的に(分析的に)」解明しようという広い運動で、活発に研究が行われていましたが、人工知能の失敗に象徴的なように、すでにピークは過ぎたと言われています。

哲学では精神分析よりも現象学と繋がりが深いですね。現象学はもともとフッサールが心理学から影響されて考えたことと、現象学独我論と言われるように、自己分析的であるのに対して、精神分析は本質的に他者の分析です。

認知科学の難しさも、他者に関係するでしょう。たとえば人工知能が失敗したのは、簡単にいえば人工知能は「空気(コンテクスト)を読めない」からです。空気(コンテクスト)は他者とのたえず変化する関係です。認知科学の例としてはあまり良いとは思えませんが、河本がラカンオートポイエーシスに展開するのは、他者の導入のための入口として使うためですね。

たとえばジジェク認知科学批判として、なぜ人が認知科学に向かうのか、心を解明しようとするのかを説明できないと言いましたが、精神分析が、社会にひろく展開されているのに対して、(治療としての精神分析だけでなく、「心理学化する社会」という意味で)、認知科学はデモレベルというところでしょうか。

考える名無しさん
ラカンには制御モデルがありませんので、言いっ放しのこじつけ理論モドキですね。それは、つねに事後解釈でしかなく、都合よく辻褄合わせをしているに他なりません。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
フロイト精神分析をメタ心理学といいましたが、人間に制御モデルがあるのかが問題なわけです。あなたの悩みは制御モデルであらわせるのですか、ということです。

ここには近代科学そのものの問題があります。要素還元主義という信仰がなぜ絶対の真理であるというところまで浸透しえたのか。その方法論によってではなく、経済的な成果をあげているという事実によって事後的にです。これが科学信仰の転倒です。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
精神分析精神分析学でないのは、患者との対話には反復はなく一回性であるからです。それに対して、要素還元主義的機械論は反復を前提にします。

人間を反復に還元するのはたとえば人口論ですね。それぞれの個性は抑圧され、だれでもよい一人になる。これをフーコーは「生権力」と呼びましたが、科学信仰の弊害です。

精神分析はそこに「科学に対立する」倫理的な要請が内在しています。「コミュニケーションはかならず失敗する」それがラカンのテーゼです。「この赤はあなたのみている赤と同じか。」「同じである必要はない。この赤は唯一の赤である。」その上で他者との対話はいかに可能かと問うことが精神分析の基本です。

考える名無しさん
ラカン理論のように過去しか語れないものは、理論ではありません。ただの茶飲み話でしかないのです。暇潰しのネタとしての価値は十分ありますがね。理論として語りたいならば、未来を語れないとダメなのです。疑似理論の多くは一回性というタイプ論に逃げ込みます。そのようなフェノタイプに逃げることなく、ゲノタイプに挑み続けた結果、現在の利便性にあやかっているのです。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
ここでいうときの過去、未来とはどのような意味でしょうか。未来とは1回性です。科学は反復性によって支えられており、1回性を語ることはできません。要素還元主義が未来を語れるというのは幻想ですし、さらにいえば、物理学は可逆性であり、未来も過去もないのですよ。

考える名無しさん
未来の可能性というコンテクストから、予測可能性ということが導けないといけませんね。その精度を高め続けるのが科学です。要素還元主義などという昔ばなしを持ち出してお茶を濁しても無駄です。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
科学とはなにか、と言う問題ですね。あなたがいう科学の定義はどのようなものですか?

たとえば「未来の可能性というコンテクストから、予測可能性ということが導けないといけません。その精度を高め続けるのが科学です。」があなたの科学の定義であるのなら、ラカンも十分科学ですよ。社会学でもこのような意味でラカンモデルが使われているわけです。

考える名無しさん
ラカンは患者をろくに治療できませんでしたね。理論が機能していないのです。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
ラカン理論が精神分析としての実用性に乏しいのは良く言われることです。ラカンは「フロイトの哲学化」といわれるように、ラカンが扱う人間は哲学的な主体としての面が大きいです。精神分析の1回性にかかわらず、ラカンの主体はフロイトの生の人間像に対して、モデル化されており、1回性の生な人間に適用するのが難しい面があると思います。

そのかわり、ラカンは難解であるといわれるのとは異なり、人間モデルとしてとても扱いやすいものです。これが哲学、社会学などなど広く、用いられる所以でしょう。むしろ実用的な人間モデルとしてラカン以外になにがあるのでしょうか。

*1
*2

*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板「ラカンと愉快な仲間たち セミネールⅢ」スレッド http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1157460884/からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。

*2:画像元 http://unit.aist.go.jp/neurosci/japanese/kannkakuninshikagaku.html