マルクスの「労働価値」はなぜ消えたのか

pikarrr2006-09-29

「貨幣は貨幣であることで貨幣である」


岩井克人貨幣論(ASIN:4480084118)では、マルクス資本論(ASIN:4003412516)で展開された価値形態論が脱構築されている。マルクスの示した価値形態の図式を循環論Zへと展開することで、貨幣という形態には、マルクスがこだわった「価値に表されている労働」による根拠づけのような外部要因が入り込む必要がないことを示す。「貨幣は貨幣であることで貨幣である」とうことだ。

ではこれによって労働価値説はもはや葬り去られるのだろうか。ある意味で正しく、ある意味で正しくない。岩井はこのような循環論の他の例として「言語」を上げている。これは柄谷が、マルクスの価値形態論をソシュールの言語論で説明することと同じ意味であり、貨幣が構造主義的構造を持つことをしめす。

だから東は岩井の貨幣論デリダ構造主義批判である否定神学と言った。すなわちマルクスの価値形態論は否定神学である。よって循環論の構造を持つのだ。

しかし実際の価値は、マルクスの、そして岩井の循環論のような構造では説明できない。構造主義はできすぎた静的な構造なのだ。岩井の循環論Zは静止しており、力動が欠落している。デリダ差延などによって示したのが、静的な構造から動的構造へのモデル変更である。そして実際の貨幣システムには必ず外部が存在する。そしてそこに「労働」を導入する契機がある。




マルクス「労働」には外部がない


このような力動の導入、すなわち「生成」の導入はマルクス資本論にもある。

マルクス資本論の中で商品の価値形態論と交換過程論とをそれぞれ独立に論じたことの意義があきらかになる。それは、商品世界の「構造」の分析と商品世界の「生成」の叙述との区別である。・・・まさに商品世界の生成という物語を語るのが、「交換過程論」の課題なのである。

貨幣論 岩井克人 (ASIN:4480084118)

ならば価値形態論で廃棄された「価値に表されている労働」という外部は、力動を語る交換過程論において再生されるのだろうか。残念ながら、マルクスは構造の力動を「労働」に求めない。なぜならマルクスの労働価値論はそもそもにおいて、外部として、力動として作動しないのだ。

マルクスにとって商品価値に内在する「労働」とは、社会的平均労働力でありなおかつ、「抽象化された人間労働」である。だから柄谷はマルクスの価値形態論において労働時間とは単に貨幣を言い換えたものにすぎない、といったのだ。外部としての「労働」とは、社会的に平均されなければ、抽象化もされない。




従順な(内部)自然=グレイゾーン


この外部の問題は、労働価値説だけのことではなく、マルクスの思想の根底にさかのぼるものである。マルクスは目指すべき原点を自然と調和する類的本質においているということ、すなわちそもそもにおいて、マルクスの思想には外部がないのである。

すなわち有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。

簡単に商品体は、自然素材と労働という二つの要素の結合である。・・・この製作の労働そのものにおいても、人間はたえず自然力のたすけをかりている。したがって、労働はその生産する使用価値の、すなわち素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティがいうように、労働はその父であって、土地はその母である。

資本論 第一章 商品 マルクス (ASIN:4003412516

マルクスにとっての自然とは調和可能な母なる自然、飼いならされ「従順な(内部)自然」である。このような自然はボクがいうところの内部と外部の境界=グレイゾーンでしかない。マルクスは、その始めから、外部としての自然から隔絶して、グレイゾーン(従順な内部自然)に囲まれた豊かな社会、すなわち資本主義的社会を前提に組み立てられているのだ。だから自然とは従順な自然であり、有用な労働とは自然と調和した還元可能な労働なのである。そしてマルクスの価値形態論が示すのは、安定し豊かな社会において、経済システムは循環論という静的な構造モデルに近似することを示しているのだ。




不確実な(外部)自然と柔軟な労働


ほんとうの自然とは外部であり、不確実で、調和不可能であり、地震、天災のように純粋な略奪として、あるいは太陽の恵みのように純粋な贈与として到来する。そして決して機械決定論に還元されないカオスとして、循環論という内部に回帰する。一見、従順な姿で内部に入り込み、突然暴走する。

人は絶えずこの不確実な外部に晒され生きている。生きるとは、労働するとは、このような外部との闘争、自然主義的闘争」なのである。だから労働はこのような外部に対応するように、いいかげんで、柔軟で、多様で、そして創造的であり、決して一元的に「価値」に還元することはできない。労働とは欲望であり、価値そのものを作動する力である。だから価値には必ず「労働」が内在している。




近代化において排除された外部の回帰


マルクスがこのモデルをもとに恐慌を語るのは、静的なモデル故に、柔軟性がなく脆いということに対応する。そしてこの静的なモデルを社会主義という未来へ展開するとき、ダイナミズムを抑圧するように作動してしまう。

しかしこれはマルクスのみの問題ではない。数量へ還元されないものは外部へ排除するという「近代化」のもつ問題である。資本主義はこのような近代的な還元とともに、グレイゾーンという柔軟でいい加減な緩衝域を保持し生き延びてきた。それも限界が見えている。環境問題が近代化において排除された外部の回帰であることは容易に想像できるだろう。現代は近代的な還元的数量化という自然主義闘争様式のシフトを迫られているのである。