ダリというフロイトとマルクスの交錯点

pikarrr2006-10-09

「私はダリでしょう?」


ダリ展(http://www.fujitv.co.jp/events/art-net/go/315.html)にいってきました。シュルレアリスムフロイトから大きく影響を受けたと言われるように無意識的です。ダリの絵は一見、抽象的な絵なのですが、感性的というよりも思考的です。隠し絵や暗示絵など考え抜かれてつくられています。ラカン風にいえば、シュルレアリスムは言語のように構造化された芸術表現と言えるかもしれません。

さらにダリの絵は、心身二元論的であるのかもしれません。その特徴は、身体は物体化されて、ものの中にはめ込まれる感じで描かれることが特徴的です。すなわちその全体からの映し出される心に対して、器質身体は疎外されています。

たとえばダリの「家具栄養物の離乳」http://www.fujitv.co.jp/events/art-net/go/315_large05.html)という絵では、ダリの乳母だったといわれる女性が、背中を四角にくりぬかれ、杖で倒れないように支えられ、人形のようにうなだれて座っています。その横にはくりぬかれた形と同じ四角のテーブルが書かれています。これはこの乳母の本質が家庭にあった四角のテーブルであるという、機械としての乳母を描いています。




心の虚像化と身体の疎外


この身体の疎外(デカルトの機械論)は、近代化の特徴として語られますが、産業革命以後、現代においてより顕著に現れています。ボードリヤールマルクスの生産論を葬り去り、消費論を展開しようと試みました。それはボードリヤールのシミュレーションやハイパーリアルという言葉に特徴的です。

しかし「心の虚像化」は、身体からの解離であり、「身体の疎外」、機械論を根底に持ちます。だから身体の疎外の次元、マルクスの下部構造による疎外論はなんら変わっていません。ボードリヤールの消費論の下部構造として、経済という機械は身体を組み込み作動するということです。これが、ボードリヤールと同時期にマルクスを展開したドゥルーズ的なものでしょう。そしてダリの絵はとてもドゥルーズ的なのです。年代順としてはドゥルーズはダリ的ということですが。

すなわち心を解体したフロイトと、身体を解体してマルクスは、相補的に機能しています。だからシュルレアリスムフロイト的であるとともにマルクス的である。そして現代において、マルクス的であるという意味、疎外される身体において、ダリの絵は、リアルであるように、ボクは感じました。象徴的な絵の構図よりも、そこで疎外される身体描写にこそ、リアリティを感じました。
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