なぜ新書ブームなのか 認知限界社会

pikarrr2006-10-14

マスメディアの中で継続的に続く大きな物語


最近、コント番組というものがなくなりましたね。バラエティー番組というハプニングを売り物にする、ライブ感を大切にする番組花盛りです。それは、「あいのり」のようなライブバラエティーに繋がっています。

多くの視聴者は軽い感じで、テレビを「ながら見」しています。コントでは、内容を「読み込む」ために、その場面の状況(コンテクスト)を読み込む必要があります。同じタレントがでていたも、このコントでは彼はどのような役を演じて、どのような状況(コンテクスト)におかれているのか。

バラエティーではそのような読み込みは必要とされません。出川はいつも出川という役です。バラエティーは同じタレントが入れ替わり立ち替わりでますが、出川ならいじめられ役のように、お嬢様役、キレ役などなど、タレントはすでにある役を担わされたキャラクターです。それは、いわば、マスメディアの中で継続的に続く大きな物語です。

だからこの「バラエティ劇場」という中で、役を手に入れることが、タレントの目指すところです。何らかの得意な才能はきっかけであって、役をつかむことが継続してテレビに出続けるコツです。バラエティタレントになるには、とにかく回数テレビにでて、馴染まれることです。




「キムタク」という役


たとえば最近CSなどで、韓国のバラエティー番組を見ることができますが、特別おもしろくもない、どこにでもいそうなおにいちゃんが爆笑を取るのは不思議な感じがします。彼は、韓国の「バラエティ劇場」の中でなんらかの役を担っているのでしょう。外部にいるボクたちは韓国で進行する大きな物語に参加していないのでわかりません。

それに比べて、ドラマは出ている人物が始めて見る人でも、その背景(コンテクスト)自体から読み込むので、違和感がありません。むしろ知らない人の方が、物語に集中できるくらいです。たとえば悲劇の役を演じる沢尻エリカは、タレントとして知っている沢尻エリカでであるとともに、このドラマの中では、悲劇の少女であるという二重を分けてドラマを見る必要がありますが、始めて見る人物なら、それがドラマとわかっていても、その少女がドラマの少女であると思いこむことが容易になります。

しかし実際は、ドラマの視聴率は、内容よりも出てくる俳優に大きく依存すると言われています。高視聴率をとるキムタクドラマは、内容がおもしろいよりも、キムタクがでることで数字がとれるということです。これは、視聴者がそのドラマ単体だけでなく、バラエティを同じように、大きな物語としてもドラマを楽しんでいることを意味します。キムタクはどのドラマでも、あるいはバラエティでも、大きな物語で与えられたキムタクという役なのです。




認知限界社会とデーターベース化


このような傾向は、テレビを「ながら見」しやすくします。ドラマでも、バラエティでも、あるタレントをキーにすることで、途中からでも、その場面だけでも、視聴者は状況(コンテクスト)を理解し、内容を楽しむことができます。

このようなことが起こるのは、情報化社会における社会の中の情報過多にあると思います。一つのバラエティ、ドラマを毎回、全体を集中するほど、時間を割けないだけでなく、人間には認知限界があり、情報処理能力を避けない。人はもっと様々な情報を処理しなければなりません。

このような傾向を東浩紀 動物化するポストモダンでは、「物語消費」とデータベース化として示しています。視聴者は、「日本バラエティー劇場」という状況(コンテクスト)の大きな物語を共有しながら、それぞれのバラエティ、ドラマを楽しむ。そしてこの大きな物語は、キムタク、沢尻エリカ、出川などなどのデーターベースによって支えられているということになるのでしょうか。

大塚によれば、オタク系文化においては、ここの作品はもはやその大きな物語の入口の機能を果たしているにすぎない。消費者が真に評価し、買うのはいまや設定や世界観なのだ。とはいえ実際には、設定や世界観をそのまま作品として売ることは難しい。したがって現実には、実際の商品は大きな物語でるにもかかわらず、その断片である「小さな物語」が見せかけの作品として売られる、という二重戦略が有効になる。大塚はこの状況を「物語消費」と名付けた。

物語消費の構造が、まさにこのデータベース・モデルの構造を反映していることが理解できるだろう。「小さな物語」「設定」の二層構造とは、見せかけと情報の二層構造のことである。物語消費に支配されたオタク系文化においては、作品はもはや単独で評価されることがなく、その背後にあるデータベースの優劣で測られる。


動物化するポストモダン 東浩紀 P50-53 (ASIN:4061495755




新書ブーム


最近、新書ブームですね。朝日新書も創刊されました。その中でも「新書365冊」宮崎哲弥(ASIN:4022731060) は象徴的な感じがします。大量の新書を紹介するというメタ新書とでもいうのでしょうか。

この新書ブームも「認知限界社会」に対応しているのではないでしょうか。小説のように背景(コンテクスト)を読み込む労力の必要がなく、小難しい単行本のように深い読み込みも必要もなく、しかし雑誌の特集のような浅いものでなく、興味あるものを、興味のあるところだけ、「ちょい」深く読み込む。




データーベース消費するブログ群


さらにボクはこの新書ブームが、ブログブームと連動しているように感じています。かつてのホームページとブログの違いは、ホームページがそれぞれが個別であったものが、ブログでは様々な仕掛けによって連動していることです。

あるブログを単独で読み込むというよりも、いまブログ界隈で話題になっているテーマについて、様々なブログを「ちょい」読み、そしてブログを「ちょい」書く。これによって、話題は「データベース化」されていきます。だからかつてのホームページのように単独で読み込ませ、認知負荷が高いサイトよりも、ブログ界隈で流行りの大きな物語に関しての簡潔にコメントを発するものが好まれます。

そして、このような作動はブログ群に閉じたものでなく、マスメディアと連動し、そして社会と連動しています。ブロガーはこのような社会的な大きな物語の端部として「ちょい」参加しています。

しかし社会に対して影響を与えると言う意味では、ブログよりも2ちゃんねるの方が大きいでしょう。2ちゃんねるでは一つ一つはさらに小さなコメントですが、それが「祭り」という盛り上がりとして影響を与えます。そして「祭り」はこのような影響に確信犯的に行われます。そして次々と話題(データベース)を消費しています。

日本ではまだブログはそこまで社会に影響力を持っていませんが、データーベース化された各話題についてのブログ上の様々な単発の発言が行われています。そして膨大な発言でインフレーション気味であるブログに対して、ちょっとしたプロがわかりやすい解説を書く、データベース化された話題の解説書というような位置を新書ブームは担っているのではないでしょうか。

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