なぜコミュニティは必要なのか その1

pikarrr2006-10-15

仕事のおもしろさと企業コミュニティ


やはり仕事はおもしろいですね。仕事のおもしろさは強制力にあるのではないでしょうか。決して分かり合えない他者とのコミュニケーションにおいて、仕事という目的において働く強制力であり、分かりあったフリをしなければ、プラグマティックな成果としての仕事は成立しません。大きな一つの目的を共有するように振るまうことでコミュニティが形成され、そこに帰属意識、責任感、充実感が生まれます。大変だからやりがいがある。

日本において、このような幸福な関係は、年功序列制度によって保障されていたといえるでしょう。現代は、人件費の削減から、リストラなど将来の保障の消失、あるいはその場限りの労働力のフリーターなどによって、もはやコミュニティとしての力は薄れつつあります。

大災害のときなど、人は他者の強い助けを必要とします。このような外部自然からの「純粋な略奪」としての大きな負債の発生は、負債の分担としての贈与の連鎖によってコミュニティを生みます。たとえば阪神大震災のとき、安否を確認する、助け合うなどのコミュニティの機能は、隣に誰が住んでいるかもわからない時代、地域コミュニティよりも、企業というコミュニティが力を発揮したと言われています。企業の連絡網が安否を確認し、社員同士が助け合った。

しかし先のように、企業というコミュニティが崩壊する中で、今後「純粋な略奪としての大きな負債」にはいかように対応するのでしょうか。




資本主義社会とコミュニティの希薄化


科学技術の発展は、このような「大きな負債」を軽減してきました。様々な天災、飢饉、疫病など人類に未曾有の破壊をもたらすものに対して、防衛力を発達させてきたのです。それが、贈与の連鎖としての地域コミュニティの絆を弱めました。そして他者への依存を弱め、「自分の好きなように生きる」ということを可能にしました。

また貨幣交換による資本主義社会そのものが、このような贈与関係の希薄によって可能になっているといえるでしょう。貨幣交換においても、紙幣という紙きれに価値があるというルールを共有する内部が必要とされますが、このような内部は贈与によって支えられるコミュニティに比べれば、繋がりとしては希薄です。

たとえば貨幣交換では、交換法則を認めるならば、相手が誰であろうが、お金さえ持っていれば成り立ちますが、贈与関係は、相手が誰かが、まさに重要になるという小さいなコミュニティですが、強い繋がりによって作動します。だからこそ、貨幣交換は贈与関係よりも、大きな集団に展開可能であるといえます。




資本=ネイション=国家


たとえば、柄谷は国民国家を資本=ネイション=国家をボロメオの環として示しました。ここでのネーションは、ボクの言う「コミュニティ」に近いでしょう。

ネーションもそのような意味で「想像的」な共同体なのです。ネーションにおいては、現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補充され解消されています。また、ネーションにおいては、支配の装置である国家とは異なる、互酬的な共同体が想像されています。こうして、ネーオションは国家と資本主義経済という異なる交換原理に立つものを想像的に総合するわけです。私は最初に、いわゆるネーション=ステート(国民国家)とは、資本=ネーション=国家であるとのべました。それは、いわば、市民社会市場経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)によって結ばれているということです。これはいわば、ボロメオの環をなします。つまり、どれか一つをとると、壊れてしまうような環です。


「世界共和国へ」 柄谷行人 P175 (ASIN:4004310016

日本における年功序列制は、資本主義社会によって地域コミュニティを補完する形で、企業への忠誠心を養うというように、企業コミュニティを形成しました。本来、格差をうむ、繋がりを希薄化する資本主義において、企業コミュニティが繋がりを支えました。そしてこのような年功序列制を取り入れた日本企業は、西欧からの遅れを取り戻す高度成長期において、強い組織作りによって、競争力を持ち得ました。




「小さな政府」という放置


しかし成熟期をむかえた今、年功状列制は崩壊し、企業コミュニティへの帰属は希薄化しています。その中で重要視されるのが、国家による保障です。たとえばコミュニティという絆が希薄化する中で、大災害が起これば、さらに政府による支援が重要になります。

たとえば最近ならばマンション擬装設計など、どこまで自己責任で、どこまで政府の支援すべきかが、問題になります。年金の問題もそうでしょう。企業コミュニティが消失する定年後において、もはや政府による保証のみが頼りになる、ということです。

しかし「小さな政府」というのは、企業の実力主義とにています。最近、企業は実力主義として年功序列でなく、能力似合わせて報酬を払うということですが、実際には全体賃金量の低減が目標とされています。頑張れば金を払うの意味は、だめなやつには金を払わない。ということであり、それによって総人件費は低減されています。

小さな政府も、自由競争を促します。ここにあるのは、年金などの総経費の削減を目指します。高齢化社会などによって、従来のような保障を続けることができません。あとは自分で何とかするしかない、という意味が含まれています。




お金への過剰な依存とコミュニティの希薄さ


だから一人で生きて行かなければならない。そのためのは「お金」だけが頼りになるのです。そしてなんでもお金で買えるように社会システムの構築が進んでいます。お金があればなんでもできる、というのは、システム化された社会です。お金で買えるものによって、システムとして世界を網羅している。

この貨幣交換関係の内部においては、すべてはお金でかえる。愛でも、生でも。しかしそれは「線」でめぐらされたネットワーク的世界であって、そのちょっと脇は、お金で買えないもので溢れている。ただ貨幣交換関係内部には豊かさを享受する十分なものがある、ということです。それは充足を意味するわけではありませんが。

先も言ったように、科学技術の発展は、このような「大きな負債」を軽減してきました。かつての社会よりもずっと豊かになっています。人々はいまよりもずっと貧しい生活をしてきたのであり、世界のほとんどはいまも貧しい生活をしています。それでもボクたちは彼らよりも不安が解消されているわけではありません。むしろ大きな不安の中にいるとも言えます。お金への過剰な期待もその裏返しです。

豊かであっても、一人で生きていくのは不安です。問題は、コミュニティの希薄さにあるのではないでしょうか。年功序列的な企業コミュニティの消失のあとを、支えるような実働的なコミュニティがありません。それほど豊かでなくても、助け合う繋がりがあれば、なんとかなるのではないでしょうか。

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